妻子がある身でありながら、日本テレビのアナウンサー・村上節子さんにどんどん惹かれていったという、田原総一朗(たはら そういちろう)さんは、当初は、お互いの生き方を確かめるための論争をするなど、本音の話をすることができる、自分の最大の理解者としてのつきあいだったそうですが、やがては、一線を越えてしまったといいます。

「田原総一朗は婚姻中も村上節子が最大の理解者だった!」からの続き

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村上節子と二人きりで旅行に

村上節子さんさえ理解してくれれば、世間が理解してくれなくてもいいとまで思うようになっていったという田原さんは、ついには、1967年2月3日、初めて、節子さんと二人で旅行したそうですが、

節子さんも、この頃には、仕事も家族も捨てていいという状態にまでなっていたそうで、

(節子さんも夫と娘が1人いたそうです)

実は、田原さんは、このまま、節子さんと一緒に地の果てまで行くのか、それとも、戻るべきなのか、自分でも分からなくなっていたそうで、それを確かめたくて、節子さんを京都へと誘ったのだそうです。

初めての旅行では男女関係にはならず日帰りで帰っていた

ただ、その旅行中、ちょっとした溝に細い竹を並べただけの橋を渡る時、田原さんが、先に渡って節子さんをエスコートしようと手を差し出したそうですが、

節子さんは、その手を取らず、サッと手を引っ込めたそうで、結局、その晩は京都に泊まらず、日帰りで(男女の関係にならず)東京に帰ったのだそうです。

(後に、節子さんは、この時、手を引っ込めた理由について、「手をつないだら、キスまで行くと思った。だから、つながなかった」と明かしたそうです)

ついに村上節子と男女の関係になる

それでも、その後も、二人の関係は終わらず、旅行の翌日には、またいつも通り会い、1日置きにデートするほか、電話は毎日かけ合うという関係が続いたそうです。

そんな中、田原さんは、このような関係をどうすればいいのか悩み、「東京12チャンネル」の撮影部にいた、”その道の達人”に教えを乞うと、

その人は、「とてもいい宿を知っているから紹介してあげる」と言って、神奈川県二宮町にある旅館を紹介してくれたそうで、ついに、田原さんと節子さんは、その旅館で男女の関係となったのだそうです。

(ちなみに、田原さんは、この時、これまで味わったことのないとても甘美な体験をしたそうで、東京に戻る列車の中では、ずっと節子さんの手に自分の手を重ねていたそうです)

村上節子との不倫をやめることができなかった

以来、田原さんは、節子さんと逢瀬を重ねたそうですが、妻・末子さんに対してはもちろん、節子さんにも夫と娘がいたことから、罪悪感を持っていたそうで、何度もやめようと思ったそうですが、節子さんが「自身が破滅してもよい」とまで思うようになったことから、やめることができなかったそうで、

田原さんは、著書「塀の上を走れ 田原総一朗自伝」で、

この世は不条理であり、男と女の関係もつくづく業だと思う。それぞれの家庭で、自らの役割を果たすという黙契を結び、息苦しくなると、ふたりでよく死について話し合った。

と、綴っています。

(二人とも、「その日一日一緒にいて、心と体が触れ合えれば、それでいい」という刹那的なものだったそうです)

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村上節子と二人だけの隠れ家を借りていた

そんな田原さんと節子さんは、旅館やホテルを転々としていたそうですが、大変で面倒くさかったことから、やがては、節子さんが、千代田区麴町にある出版社「文藝春秋」近くの路地裏に、六畳と四畳半の二間のある部屋を借り、ここを二人の隠れ家としたのだそうです。

(陽が全く射さない部屋だったそうですが、田原さんは、二人の関係にぴったりだと思ったそうです)

「田原総一朗は不倫中に妻を乳ガンで亡くしていた!」に続く


塀の上を走れ 田原総一朗自伝

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