臨終のお父さんに日本一のプロ野球選手になることを誓ったという、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんは、その後、苦しくなった家計を支えるため、立教大学を辞めてプロ入りすることを考えるも、家族の反対に遭い、大学に残ると、これまで以上に激しいトレーニングに励んだそうです。
「長嶋茂雄は臨終の父親に日本一のプロ野球選手になることを誓っていた!」からの続き
父親の死後は家計を助けるためプロ入りを考えていた
お父さんが他界したことで、家計が苦しくなり、これ以上、お母さんに経済的な負担をかけたくないと思っていた長嶋さんは、立教大学を中退してプロに入ろうかと思っていたそうで、
そんな噂を聞きつけて、阪急ブレーブス(現・オリックス・バファローズ)の丸尾さんが、大阪からはるばる、スカウトに来たほか、野球部の新人の親方である宗野さんも心配して、わざわざ自宅まで訪ねて来てくれたそうです。
立教大学を中退してのプロ入りを家族に反対されていた
ただ、長嶋さんが、
母さん、おれ、プロにいっちゃおうかな?
と、言うと、
お母さんは、
お前は、父さんが手をにぎってなんといったか、忘れたのかい?茂雄、家のことは心配せんでもいい。お前は、本当になんてことを言いだすのかねえ
と、怒ったそうで、
お兄さんと2人のお姉さんたちも、
学資はなんとかするから・・・
と、プロ入りを反対したそうです。
また、お母さんは、わざわざ訪ねてきてくれた宗野さんにも、
ご心配をおかけしましたが、だいじょうぶです。茂雄は大学だけはきちんと卒業させます。女の細腕では十分なこともしてやれないかもしれません。でも、どんなことがあっても卒業だけはさせます。
と、きっぱり言ったそうで、
結果、長嶋さんは、プロに行くことはなく、立教大学に残ったのだそうです。
(お母さんは、当時盛んだった野菜の行商をするなどして、生計を支えてくれたそうです)
父親の死後はこれまで以上に練習に励んでいた
そんな長嶋さんは、立教大学野球部の合宿に戻った後は、これまで以上に激しく練習に励んだそうで、夜間トレーニングが終わり、みんながほっとしている時でも、長嶋さんだけはそっと物陰へ行って、(手首を強くしようと)重いトレーニング・バットを振ったのだそうです。
(この頃、長嶋さんは、インコースの球をまだ十分に打ちこなせなかったそうで、砂押監督にも、この弱点を徹底的に鍛えられていたそうです)
「長嶋茂雄は立教大時代に重いバットでの素振りを続けていた!」に続く