お父さんが他界後、苦しい家計を助けるため、大学を辞めてプロ入りすることを考えるも、家族の反対に遭い、大学に残ると、大学を続けさせてくれるお母さんや他の兄姉たちのためにも、なお一層、野球の練習に励んだという、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんは、やがて、自分に実力がついていっていることを実感し、楽しくてたまらくなっていったといいます。
「長嶋茂雄は父の死後は家計のため立教大中退(プロ入り)を考えていた!」からの続き
砂押監督のもとで重いバットでのスイングを続けていた
お父さんが他界後は、家計が苦しい中、大学を続けさせてくれる家族のためにも、これまで以上に練習に励んだという長嶋さんは、夜間の砂押監督の特訓も続いていたそうで、
毎日、いつもの空き地へ駆け足で駆けて行っては、
砂押監督に、
よし、というまで素振りだ
と、無造作に言われ、素振りをしていたそうですが、
砂押監督に渡されていた重いトレーニング・バットでは、12~13分も振れば、後はもうスイングとは言えたものではなかったそうで、
最後の方は、バットを腕だけでは支えきれなくなり、腰でかろうじてバットを動かしているようなもので、両腕が鉛のように重くなり、ついにはバットの先がぐにゃりと地面にたれ、掃くようにして振っているだけになったそうですが、それでも、砂押さんから、「よし!」という合図はかからなかったそうです。
そして、とうとう、長嶋さんが、へなへなとその場に座りこんでしまうと、ようやく、砂押監督は「よし」と言ったそうで、砂押監督からは、それを毎日平均1時間はやらされたのだそうです。
(この時、すでに夜の8時半だったそうですが、砂押監督は野球部の新人の親方である宗野さんに、長嶋さんが9時に合宿所に戻ると伝えていたため、疲れ切った中、さらに、駆け足で合宿所に帰らなければならなかったそうです)
父親との約束を守るため一心不乱にバットを振っていた
また、長嶋さんは、寒い冬の日には、バットがすべらないように、水で濡らした軍手をはめて振ったそうですが、指のハラ、手の平にびっしりマメができたそうで、それが素振りのたびにつぶれて、血が吹き出し、軍手が血で染まったそうです。
それでも、長嶋さんは9ヶ月間この素振りを続けたそうで、臨終のお父さんの枕元で誓った、六大学一番の選手になって日本一のプロ野球選手になるという夢に向かって、一心不乱にバットを振ったのだそうです。
(そのため、痛みはあったものの、辛いと感じたことはなかったそうです)
実力がついていくことが分かり野球が楽しくて仕方なかった
こうして、長嶋さんは、スパルタ式の砂押監督の練習に不平不満を言うことなく、ただひたすらバットを振り続けたそうですが、
(甲子園に出場したことのない長嶋さんにとっては、練習だけがすべてであり、それ以外に、人より抜きん出る方法を知らなかったため、砂押監督の猛特訓も苦しいと思ったことはなかったそうです)
そのうち、自分でも分かる程みるみる力がついてきて楽しくなったそうで、スイングの振り幅が新入生の頃とは格段の差になっていることが分かったほか、守備範囲も随分広くなったことが実感出来たそうで、ますます野球がおもしろくなり、昼も夜も24時間野球ばかりやっているような状態になったのだそうです。
「長嶋茂雄は立教大で上級生からの因縁に真っ向勝負を挑んでいた!」に続く