お父さんが他界した後は、六大学一番の選手になって日本一のプロ野球選手になるという、お父さんとの約束を守るため、それまで以上に砂押監督の猛特訓に励んでいた、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんですが、そんな中、砂押監督から特別に目をかけられていることをよく思わない上級生から、因縁をつけられたことがあったといいます。

「長嶋茂雄は立教大時代に重いバットでの素振りを続けていた!」からの続き

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上級生から因縁をつけられるも真っ向勝負を挑んでいた

長嶋さんは、1955年、大学2年生の夏、砂押監督から特別目をかけられていたことをよく思わない上級生から因縁をつけられたことがあったそうで、

長嶋さんが練習をしようとグランドに出た途端、4年生の先輩3~4人が、

おい、長嶋・・・

と、不意に声をかけてきたことから、

長嶋さんが、

はいっ?

と、答えると、

先輩たちは、

お前な、この頃ちょっとでかい面してるんだってな?

と、言ったそうで、

長嶋さんが黙っていると、

返事しろよ

と、どんと肩を突いてきたそうです。

(胸を殴られたという説も)

これに対し、長嶋さんは激昂したそうで、

よし!そんなことを言うなら、腕でこい!片をつけてやる

と、バットをわしづかみにし、自分からホームプレートの方へ歩き出すと、

先輩たちは、一瞬、ポカンとあっけにとられていたそうですが、すぐにみな血相を変え、それぞれバットを持って、長嶋さんの後を追いかけて来て、

な、なまいきな・・・

こっちこそ、片をつけてやる!

と、言ったそうです。

退学処分も覚悟のうえだった

ちなみに、当時の野球部は、1年違うだけで、(相撲で言う)横綱とふんどしかつぎぐらいの差があったそうで、下級生が上級生に正面きって歯向かうのは、ふんどしかつぎが横綱に、荷物を持たせるようなものだったそうですが、

長嶋さんは、「腕でこい!」と叫んだ時、上級生もヘチマもあるものかという気持ちで、普段、陰でブツブツいっている連中を面と向かって叩き伏せてやると、本気で思い、除名(もしくは退学処分)も覚悟のうえで、とっさに大学を辞めるハラを決めたのだそうです。

同級生たちが加勢のため集まってきてくれた

さておき、長嶋さんがホームプレートまで歩いて行って立ち止まり、バットを構えると、練習中だった同級生たちが、長嶋さんに加勢しようとすごいスピードで一斉に集まり、

4年生たちも全員がバットを持って駆けつけ、それぞれホームプレートをはさんで、にらみ合いとなったそうです。

(2年生は20~30人、4年生は15~16人だったそうです)

そして、あわや、乱闘となりかけたそうですが、最終的には4年生が先にバットを収め、事なきを得たのだそうです。

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1週間の謹慎処分を受ける

ただ、その夜、長嶋さんは、「合宿所で1週間の謹慎処分」「毎晩1時間にわたる4年生からの説教」という処分を下され、

(当初、「退部」「3ヶ月間の出場停止」「合宿所“智徳寮”を出る」などという厳しい処分案も出たそうですが、当時、長嶋さんがお父さんが他界して家が貧しかったことや、際どいバット事件だったことから、この処分に落ち着いたそうです)

4年生は、廊下で1時間正座(学校側から厳重説諭)という処分を下されたそうです。

ちなみに、同級生も全員、連帯責任で廊下に正座させられたそうで、長嶋さんは、急いでホームプレートに駆けつけてくれた仲間たちに、本当に申し訳なく思ったそうです。

「長嶋茂雄は杉浦忠と共に中日球団事務所に入団を直訴していた?」に続く

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