立教大学では、砂押監督から特別に目をかけられ、猛特訓を受けていたという、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんですが、1995年、大学2年生の夏頃には、砂押監督のスパルタ方式の特訓に反発した先輩たちによる「砂押監督排斥運動」が起こっており、そもそもの発端が長嶋さんで、砂押監督から離れたかったという長嶋さんは同僚の杉浦忠さんと中日球団事務所に入団を直訴していたいう話があります。
「長嶋茂雄は立教大で上級生からの因縁に真っ向勝負を挑んでいた!」からの続き
先輩の大沢啓二に砂押監督が辞任するよう頼んでいた?
自伝「燃えた、打った、走った!」では、砂押監督の猛特訓を苦しいと思ったことはないと語っていた長嶋さんですが、
砂押監督は、練習でミスをした部員の頭をバットで殴るほか、鼓膜が破れるほど殴打し、スパイクを履いた足で太ももを出血するほど蹴り上げるという過激な鉄拳制裁を浴びせていたということで、この方針に耐えかねた長嶋さんは、杉浦忠さんや他の同級生と共に、先輩の大沢啓二さん(後に日本ハムファイターズ監督)に、
砂押の下ではやっていけないので、監督に辞任を進言してほしい。それがダメなら下級生は全員退部する
と、訴えていたようで、
大沢さんが、部員から署名を募り、砂押さんに長嶋さんら下級生の意見をぶつけると、
砂押監督は、
オレに反省する必要がどこにある。お前らが皆んなで野球を辞めたってかまわない。オレはやり方を変えん
と、拒否したものの、
やがて、砂押監督はOB会を通じて退任を余儀なくされたそうです。
(このことが原因で、大沢さんは、「砂押監督排斥運動の首謀者」とのレッテルを張られることになるのですが、後年には、「若気の至りとはいえ、ワシの取った行動は恩師に対するものではなかった」と反省し、砂押監督とはわだかまりはなくなったそうで、1992年の暮れには大沢さんが音頭を取って野球部OBを集め、『砂押を囲む会』を開催したそうです)
杉浦忠と共に中日ドラゴンズの球団事務所に入団を懇願していた?
そんな中、長嶋さんは、同年(1955年)9月には、砂押監督のスパルタ特訓に嫌気が差し、中日ドラゴンズに入団を懇願したこともあったようで、
中日OBで野球評論家・坪内道典さんの著書「風雪の中の野球半世紀」によると、1955年9月、坪内さんが、当時、西銀座にあった中日球団事務所に出向いたところ、中村三五郎代表がいたそうで、テーブルには飲みかけの湯飲み茶わんが3個あったことから、お客が誰だったか尋ねると、
中村代表は、
立大の長嶋と杉浦が中日に入れてほしいと言ってきたが諭して返したところだ
と、言ったといいます。
坪内さんによると、長嶋さんは、砂押さんのスパルタ特訓に嫌気が差し、「プロでやるなら一緒に」と、同期の杉浦忠さんと共に、野球部の合宿所を抜け出し、中日ドラゴンズの球団事務所を訪問したそうで、
(なぜ中日かというと、杉浦さんが愛知県の挙母(現・豊田西)高校出身だったことから、地元球団の中日ドラゴンズにしたと言われています)
軍隊のような立教野球部が嫌になったので、大学を中退して中日で野球をやり、金を稼ぎたい。契約金はいらない
と、申し出たそうですが、あえなく、拒否されてしまい、立教大学に戻ったのだそうです。
(坪内さんも立教大学出身だったため、後に後輩の杉浦さんに真偽を確認したところ、杉浦さんは「そんなことがありましたねえ」と話していたそうなので、この話は本当のようです)
自伝では自身の砂押監督排斥運動への関与を暗に否定
ただ、長嶋さんは、このことについて、著書「燃えた、打った、走った!」で、
先輩たちの中には、こういう一種独特の砂押さんのやり方(スパルタ式の特訓)に反発する者もいた。有名な砂押排斥運動が起こったのは、ぼくが2年に上がる寸前だった。
ぼくにはショックだったのは、仲良しの杉浦(忠)が突然、合宿から脱走したことである。この事件は、関谷マネージャーが奔走してうまくおさめたが、3年生になっても、まだ最上級生たちのあいだに砂押排斥のしこりは残っていた。
と、まるで、自身は砂押監督排斥運動に関わっていなかったかのように記しています。
「長嶋茂雄は東京六大学野球ではマスコミの存在に苦しんでいた!」に続く