立教大学4年生の時には、東京六大学野球リーグで、当時の東京六大学記録の7本塁打を更新する8本塁打を記録した、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんですが、新記録達成に立ちはだかる最大の敵はマスコミだったといいます。
「長嶋茂雄は杉浦忠と共に中日球団事務所に入団を直訴していた?」からの続き
通算7本塁打のタイ記録を打ち立てるもマスコミの存在に苦しんでいた
長嶋さんは、1957年(大学4年生)の春のリーグ戦で、通算7本塁打を記録し、
(戦前の慶大の宮武三郎さんと早大の呉明捷(ご めいしょう)さんの最高記録に肩を並べる形となったそうです)
あと一本打てば、東京六大学リーグ史上初の記録になるという状況だったそうですが、ここで、思いがけない強敵が立ちはだかったといいます。
マスコミのカメラのシャッター音や新聞記事に平静を保つことが難しかった
それは、「マスコミ」だったそうで、長嶋さんがバッターボックスに立つたびに、ベンチサイドのカメラマン席から、バシャバシャというシャッター音とニュース用のアイモ撮影機のジーッという連続音が聞こえてきたほか、
(長嶋さんが新記録を作るまでに、このアイモ撮影機が回したフィルムの長さは、東京ー大阪間ほどもあったそうです)
合宿所に帰れば帰ったで、新聞や雑誌からインタビュー攻めにあい、翌朝、新聞をひろげると、「長嶋、また新記録持ち越し」「長嶋、いよいよ待ったなし」などといった大きな見出しが嫌でも目に飛び込んできたそうで、これには、少々のことでは動じない長嶋さんも、ほとほと参ってしまったそうで、
長嶋さんはじっとしていることができず、なお、一層、激しい練習に取り組んだそうで、真夜中でもそっと合宿所を抜け出して素振り練習をしていたそうです。
(当時の神宮球場は、ラッキーゾーンがなく、なかなかホームランが出なかったうえ、明大の秋山登さんや早大の木村保さんなど、良いピッチャーがひしめき合っていてレベルが高く、ただでさえ、平静を保っていられない状態だったそうです)
最終試合の前日は目が冴えてなかなか眠れなかった
そんな中、秋のリーグ戦が始まり、慶應義塾大学と対戦すると、1回戦は杉浦忠さんが投げて勝利したそうで、翌日行われる2回戦で勝つことができれば、立教大学は初優勝を飾ることができる状況だったそうですが、
長嶋さんにとっては、新記録を達成するには、次の試合がラストチャンスだったことから、気にしないでおこうと思えば思うほど、余計に周囲の目が気になり、伸び伸びとしたバッティングができずにいたそうで、その日の夜は、
一試合というと、まわってくるのは四打席がいいところだ、ストライクは12球。ぼくが宮武さんと呉さんの記録を塗り替えて通算八ホーマーとするには、いわば12分の1の確率しかない。
などと考えて、なかなか眠れず、
懸命に頭の中で数を数え、何とか眠りについたのだそうです。
(東京六大学野球リーグとは、東京を所在地とした、早稲田大学、慶應義塾大学、明治大学、法政大学、東京大学、立教大学の、6大学の硬式野球部で構成された大学野球リーグのことで、このリーグは神宮球場で行われ、対戦方法は、単純な1試合制ではなく、6校総当たりで、同じ対戦をどちらかのチームが2勝するまで行い、同じ対戦で2勝したチームは「勝ち点1」を獲得し、勝ち点の数で順位を決定するそうです)
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