終戦後は、川づたいの土手の下に、六畳一間と三畳の土間にトタン屋根をつけただけの、粗末な家(バラック小屋)で極貧生活をしていたという、張本勲(はりもと いさお)さん一家ですが、やがては、お母さんが始めたホルモン焼き屋が繁盛して極貧生活から脱出したそうで、張本さんは、家族の愛情を一身に受け、すくすく育ったそうです。
「張本勲の少年時代は母親の営むホルモン焼き屋で生き延びていた!」からの続き
母親はバス代を惜しみ往復1時間かけて歩いて仕入れに行っていた
張本さんのお母さんは、どんなに雪が降る寒い冬でも、裸足に下駄履きで手袋もせずに闇市に仕入れに行っていたそうで、一家が住む段原から闇市のある広島駅前までは、バスに乗れば10~15分で着くところを、僅かなバス代(10円から15円くらい)を惜しんで、1時間かけて、歩いて往復していたそうです。
(張本さんは、なぜお母さんがバスに乗らないのか不思議に思っていたそうです)
母親は冬の寒い日でも裸足に下駄履きで手袋もしていなかった
そんな中、張本さんが小学3年生の、冷たい雪が降るある寒い冬の日のこと、張本さんが土手で遊んでいると、向こうからお母さんが来たことから、お母さんのもとへ駆けて行くと、
この雪の降る日に、お母さんは、裸足に下駄履きで、手袋もしておらず、その手袋をしていない両手には、重い荷物をさげて、あえぐようにして歩いていたそうで、
(お母さんの頭と背中には白い雪が積もっていたそうです)
張本さんが、
バスがあるのに、なんで乗らんのじゃ
と、尋ねると、
お母さんは、
バス賃がもったいないじゃないか
と、悲しそうに笑ったそうで、
張本さんが、
じゃあ、ワシがその籠もってやるよ
と、言って、お母さんの手に触れると、
その手は氷のように冷たく、
お母ちゃんの手が凍ってる
と、とても驚いたそうで、
張本さんは、後に、インタビューで、この時のことを、
その冷たさが強烈な印象として、わたしの心に焼きついた。お母ちゃんの手が凍ってしまう、大変だ、大事にしなければ・・・、幼い心にもそう思った。
わたしが、のちに親孝行を何よりも心がけているのは、少年の日のこの鮮烈な記憶があるからであった。それほど、わたしたち一家は貧乏だった。
と、語っています。
母親の店が繁盛し極貧状態から脱出
ただ、やがては、お母さんの店がそこそこ繁盛するようになり、豊かとはいえないまでも、極貧状態からは脱出し、一家4人、なんとか生活していけるようになったほか、
(借金も1年ほどで全て返せたそうです)
お兄さんは、中学卒業後すぐ、タクシー会社の見習いとして働き始め、18歳で免許を取って運転手となり、お姉さんも、中学卒業後すぐ、ゴム工場で働き始めて家計を支えたそうです。
少年時代は家族の愛情を一身に受けてすくすく育っていた
そんな中、張本さんはすくすく育ったそうで、よく、いたずらをしては学校の校長室に呼び出され、「おまえの兄さんはあんなに立派なのに、なんでおまえはそんなに悪いんだ」と叱られたそうですが、
(自分では特に悪いことをしているという意識はなかったそうですが、いたずらなどが重なって、「あそこの勲ちゃんは大変な暴れん坊だ」と言われるようになったそうです)
それでも、末っ子だったことから、お母さんはもちろん、お姉さんやお兄さんからもとてもかわいがられ、大事にされたそうで、張本さんが中学に入る年には、汗水たらして働いたお金で新品の学生服を買ってもらったのだそうです。
(当時、学生服は、一般家庭でもそう簡単に買うことはできなかったそうで、張本家もまだそこまで家計に余裕があるはずはなかったそうですが、そんな中で、「新品」を買ってもらったことに、張本さんは、家族の気持ちを感じ、本当に嬉しかったそうです)
(左から)張本さん、お母さん、兄の世烈さん、2番目の姉の貞子さん、世烈さんの友人。