家族の愛情を一身に受け、すくすくと育ったという、張本勲(はりもと いさお)さんは、水泳が得意だったそうですが、小学5年生の時、誘われて町内の野球の試合に参加すると、いきなり初打席で二塁打を放ったことから、野球に興味を持ったといいます。
「張本勲の少年時代は家族の愛情を一身に受けすくすく育っていた!」からの続き
小学生の時は水泳が得意だった
張本さんの家の前には、川幅が50~60メートルほどある猿猴川が流れていたそうで、張本さんは、夏になると、毎日のように橋の上から飛び込んで泳ぎ回っていたことから、水泳が得意だったそうですが(特にクロール)、
女の子に「すごい」などと言われるのがうれしくて、余計に水泳に夢中になっていたそうです。
小学5年生の時に野球を始める
そんな中、小学5年生の時、町内の社会人が趣味で集まってできた野球チームに所属していた近所のお兄ちゃんが、人数が足りないということで、「勲ちゃん、来いや」と声をかけてくれたそうで、
張本さんは、それが嬉しく、言われるままについていくと、「勲ちゃんはそこを守っとけ」と、右手用のグローブを渡されたそうです。
(遊びとしての野球はもっと幼い頃から知っていたそうですが、幼少期に負わされた大やけどで、右手は薬指と小指が焼けて三分の一ほどしかなくなり、親指と人差指も内側に曲がったまま元に戻らず、ボールをうまく握れなかったこともあり、なんとなく避けていたところがあったそうです)
初打席で二塁打を放っていた
そして、守備はライトを守らされ、打順は8番だったそうですが、
(当時は、右打者が多かったため、少年野球などではライトにボールが飛びにくく、野球が苦手な人が「ライト8番」だったことから、「ライト8番」は「ライパチ」と言われ、野球が下手な人の代名詞でした)
初打席でいきなり二塁打を放ったそうで、これには自分でも驚き、以来、野球に興味を持つようになったそうで、声をかけてくれたお兄ちゃんに、しばしば、「また連れてってぇや」とせがむようになったそうです。
ちなみに、張本さんは、この日に二塁打を打ったことは記憶しているものの、それが初打席だったことは覚えていないそうですが、
後に、このお兄ちゃんがテレビでインタビューされ、
勲ちゃんが野球に興味を持ったのは、いきなり初打席で二塁打を打ったからですよ
と、証言していたそうです。
「4番ピッチャー」に憧れるも右手が不自由だったため左投げに転向していた
ところで、当時から、花形は「4番でピッチャー」だったことから、張本さんもピッチャーをやってみたかったそうで、初めのうちは、不自由な右手でボールを投げていたそうですが、指が開かないため、どうしても遠くまで投げられず、かと言って、速い球をまっすぐに投げることも難しかったため、仕方なく左投げに転向したそうで、
(当初は右投げ左打ちだったそうですが)小学6年生の頃には、完全な左投げになっていたそうです。
(張本さんのお兄さんによると、張本さんはよく壁に向かって左右両方の手でボールを投げる練習をしていたそうで、左投げには、意外とすんなりと変わることができたそうです)
右手が不自由だったため守備は苦手だった
ただ、守備は、右手の薬指と小指が普通の人の3分の1ほどしかなく、少しばかり動かせる親指と人差し指も内側に曲がって不自由だったため、グラブの扱いがうまくできず、スポットになかなかボールが入ってくれず、とても困ったそうです。
(プロになってからは、メーカーに特注のグラブを作ってもらい、随分と助かったそうですが、やはり、ゴロが飛んできた時には、グラブだけでなく、体で当てて止めなければならなかったそうです。そして、それでもエラーをしてしまうと、「下手くそー」とヤジが飛んできたため、そんな時は、いつも、「必ずバットで取り返してやるぞ」と心に言い聞かせていたのだそうです。
「張本勲がプロ野球選手になろうと決めた中学時代の出来事とは?」に続く