中学1年生の時、巨人軍(読売ジャイアンツ)が宿泊している日本旅館の塀を登り、中をのぞくと、選手たちが食堂で大きなステーキと真っ白なご飯を食べ、分厚い財布からお金を取り出しているのが見え、プロ野球選手になることを決意したという、張本勲(はりもと いさお)さんは、その後、一層、野球の練習に打ち込むと、中学3年生の時には「エースで4番」に起用され、特に打撃で注目を集めたといいます。

「張本勲がプロ野球選手になろうと決めた中学時代の出来事とは?」からの続き

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プロ野球選手になって母親を楽にさせたかった

張本さんは、中学1年生の時、「うまいものを腹いっぱいに食べたい」「お金をたくさん稼いで六畳一間の生活から脱出し、母を楽にさせてやりたい」との思いから、プロ野球選手を目指し、本気で野球の練習に取り組むようになったそうで、

(張本さんのお母さんは働き詰めで、いつも、朝早く起き、夜遅く寝ていたことから、張本さんは、お母さんの寝ている姿を見たことがなかったそうです)

朝は誰よりも早く学校へ行って練習し、練習がない日はグラウンドの石コロ拾いをやり、雨の日は部室でバットやグラブを磨くなど、野球漬けの毎日を送ったそうです。

強く遠くへ打球を飛ばすことだけを考えて一人でバットを振っていた

また、家に帰るのは、毎日、夜の8時、9時と遅く、お母さんには、「こんなに遅くまで何をやっているのか」と怒られたそうですが、そんな言葉には耳も貸さず、それどころか、家に帰ってからも、バッティングの練習をしていたそうで、

タクシーの運転手だったお兄さんに、いらなくなったタイヤをもらってきてもらい、土手に棒を打ち込んでタイヤをとりつけてもらうと、「強く遠くへ打球を飛ばす」ということだけを考えて、一人でバットを振ったそうです。

(「ぺたん」「ぺたん」とタイヤを打ち付ける音があたりに響いていたことから、近所の人たちの間では、「また勲ちゃんのもちつきが始まった」と有名だったそうです)

中学3年生の時にはエースで4番

すると、だんだん野球がおもしろくなり、もとよりあった投手への憧れもいっそう膨らんできたそうで、バッティングの練習と共に、(速球はもちろん変化球も必要だと思い)投球練習にも励むようになると、

1年生の時には代打の出場に留まっていたのが、2年生の時にはレギュラー、3年生になる頃には、憧れの「エースで4番」を任されたのだそうです。

(ただ、コントロールは今一つだったため、周囲からは打撃の方が注目されたそうです)

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中学生の時にはしばしば長打で校舎の窓ガラスを割っていた

ちなみに、打撃練習では、段原中学校のグランドはライト方向の距離が短かかったことから、張本さんは、長打を飛ばしてはよく校舎の窓ガラスを割っていたそうで、学校が、わざわざライト方向に高いフェンスを張ったそうです。

(練習の時には、距離のあるレフト方向に向けて打つよう投手を移動させられて、「レフトに向かって打て」と言われることもあったそうです)

「張本勲は素行不良が原因で広島商業高校を不合格になっていた!」に続く

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