お金をたくさん稼いで母親を楽にさせてあげたいとの思いから野球選手になることを決意し、練習に打ち込むようになると、中学3年生の時には憧れの「エースで4番」として活躍し、特に打撃で注目を集めたという、張本勲(はりもと いさお)さんは、中学卒業後は強豪校・広島商業高校に進学したいと考え、同校の山本一義さんにも入学を誘われたそうですが・・・素行不良が原因で不合格になったといいます。
強豪校・広島商業高校への進学を希望していた
張本さんは、中学生の時、進路を考える時期になると、全国優勝を狙えるような強い高校に入り、そこで活躍できるような選手になりたいと考え、中学卒業後は広島商業高校に進学したいと思っていたそうです。
(広島商業高校は、当時、夏の全国高校野球選手権大会で3回、春の選抜高校野球大会で1回の優勝経験を持った名門校だったそうです)
山本一義に誘われ広島商業高校の練習に参加するも・・・
そんな中、広島商業高校の2年生だった山本一義さん(後に広島カープの4番)から、「うちの練習に来てみんか」と誘ってもらったそうで、
練習に参加すると、張本さんのほかにも、将来有望な中学生が10人前後、練習に参加していたことから、張本さんも必死でプレーをして自分をアピールしたそうです。
素行不良を理由に広島商業高校を不合格となる
すると、打つ、投げる、走る、の評価はどれも三重丸で、さらには、勉強の方も「中の上」だったことから、「合格」を信じて疑わなかったそうですが・・・結果はまさかの不合格。
そこで、お兄さんが不合格の理由を聞きに行くと、張本さんは素行が悪いため、広島商業の風紀には合わない、と言われたのだそうです。
というのも、体の大きかった張本さんは、怖いもの知らずで、小学4年生ぐらいの頃から、「肩が触れた」「にらんだ」などという些細なことで、よくケンカをしていたそうですが、
その根底には、日本人に虐げられていたことへの怨念があり、その怨念をケンカで晴らしているうちに、中学生の時には、「段原(中学)のハリ」と呼ばれるほどのガキ大将として、恐れられるようになっていたのだそうです。
(韓国人の子供は、日本人にイジメられてもいつも黙って引き下がることしかできなかったため、張本さんはそれが悔しかったそうで、(お母さんに「朝鮮人をあざける人間こそ下等なんだよ」と言われたこともあり)売られたケンカは必ず買い、相手をやっつけるようにしていたのだそうです)