小学4年生頃から、日本人に虐げられていたことへの怨念をケンカで晴らしていたという、張本勲(はりもと いさお)さんは、小学5、6年生の頃になると、ますますエスカレートし、中学に入ると、大人のヤクザ相手にケンカするようになったといいます。

「張本勲は素行不良が原因で広島商業高校を不合格になっていた!」からの続き

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小学5、6年生の時には目の前で韓国人が日本人にイジメられていたら日本人を叩きのめしていた

小学4年生頃から、日本人に虐げられていたことへの怨念をケンカで晴らしていたという張本さんは、体が大きいだけではなく、腕力も強かったことから、小学5、6年生になると、ケンカもかなりエスカレートしたそうで、

自分の目の前で韓国人の仲間が日本人にいじめられているのを見ると、我慢できず、相手を叩きのめしたそうです。

(1発叩かれたら絶対に10発は叩き返したそうです)

小学5、6年生の時にはケンカは最後まで徹底的にやらなければ気が済まなかった

そして、相手が完全に敗北を認めて逃げることは許すも、ケンカをやりかけて途中で逃げ出すことは許さず、必ず探し出して、きっちり「かた」をつけるなど、ケンカする以上は最後まで徹底的にやらなければ気が済まなかったそうです。

(ただ、張本さんの方からケンカを仕掛けることは一切なかったほか、自分より弱い者をいじめることも絶対しなかったそうです)

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中学時代は大人のヤクザ相手にケンカをしていた

そんな張本さんは、(段原)中学に入ると、相手は、高校生を通り越し、大人のヤクザになったそうで、張本さんが子分を引き連れて、下駄履きでウロウロしている際、大人のヤクザに「生意気だ」と絡まれると、

(この頃になると、ケンカ仲間の間で、張本さんは「段原(中学)のハリ」と呼ばれ、張本さんの名前を知らぬ者はいないほど有名になっていたそうです)

こちらが5~6人で相手が10人ほどなら、勝算は十分にあると思い、比治山の静かな場所で乱闘したそうですが、張本さんはヤクザ相手でも滅多に負けることはなかったそうです。

(ただ、レンガで顔を殴られたり、ジャックナイフで腹を刺されたことはあったそうです)

ちなみに、張本さんは、著書「バット一筋」で、

母が嘆く代わりにこう言った。「お前の気性だから喧嘩はするだろう。喧嘩してもしようがない。でも間違った喧嘩だけはするな。そして、いったん喧嘩したら絶対に負けちゃいけん。人に負けたらいけんのじゃ」

このまま喧嘩を続けていれば、「段原のハリ」はきっと“仁義なき戦い”のヤクザか何かになっていただろう。その“悪の道”からわたしを救ったもの、それが野球だった。

と、綴っています。

(広島は、映画「仁義なき戦い」の舞台になったところで、当時は、ヤクザが多く、張本さんは、そのような人たちが格好良く見えて、よくマネをしていたのだそうです)

「張本勲が中学生の時には姉を騙したヤクザを半殺しにしていた!」に続く


仁義なき戦い

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