1976年、ドラフト一位指名で中日ドラゴンズに入団すると、新人王に輝き、以降、最多安打3回(1982年~1984年)、最多出塁1回(1982年)、ベストナイン3回(1981年~1983年)、オールスターゲーム出場7回(1980年~1986年)と、素晴らしい成績を残した、田尾安志(たお やすし)さん。

今回は、そんな田尾安志さんの、若い頃から現在までの活躍や経歴を時系列でまとめてみました。

田尾安志

「田尾安志の生い立ちは?小学校ではソフトボール!高校は公立だった!」からの続き

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田尾安志は20代の時にドラ1で中日に入団すると新人王ほか4年連続3割を記録するなど活躍

21歳の時にドラフト1位指名で中日ドラゴンズに入団

田尾安志さんは、1975年、21歳の時、複数の球団から誘いがある中、ドラフト会議で中日ドラゴンズに1位指名されると、入団交渉の際、契約金2800万円、年俸280万円と言われたそうで、

その場で、すぐに、

はい、分かりました

と言って、ものの1分ほどで、中日ドラゴンズ入団が決まったのだそうです。

22歳の時(ルーキーイヤー)には自ら二軍行きを志願していた

田尾安志さんは、プロ入り1年目の1976年4月17日、いきなり、5番打者として先発出場するのですが、その後は代打起用だったことから、

二軍でやらせてもらえませんか

と、コーチに打診し、自ら二軍行きを志願したといいます。

というのも、田尾安志さんは、大学時代は投手だったため、外野守備と走塁が一軍のレベルに到達していないと感じていたそうで、

田尾安志さんは、

自分の目標が一軍に残ることではなく、レギュラーを取ることでしたから。レギュラーを取って他球団のトップクラスの選手と争うぐらいになりたい。

そう考えると、代打でしか使ってくれない一軍に帯同するのは、自分にはマイナスでしかない。それで4月が終わるころ、自分から「二軍に行かせてくれませんか」とお願いしました。

と、語っています。

田尾安志
外野守備を練習する田尾安志さん。

22歳で新人王

そんな田尾安志さんは、1976年5月、6月、二軍で、不安のあった外野守備を徹底的に練習したそうで、同年8月には、一軍に復帰すると、レフトで起用され、この年は、44試合に先発し、打率.277で最優秀新人(新人王)のタイトルを獲得したのでした。

田尾安志
新人時代の田尾安志さん。

25歳の時に初めて規定打席に到達

ただ、田尾安志さんは、プロ入り2年目の1977年には、ウィリー・デービス選手の新入団もあり、開幕からレギュラーを外され、出場機会も減少。

それでも、3年目の1978年には、ウィリー・デービス選手がクラウンライター・ライオンズに移籍したこともあり、レフトのレギュラーを奪還すると、1979年、25歳の時には、1番打者として起用され、初めて規定打席(32位、打率.251)に到達します。

26歳の時には打率2割9分9厘で惜しくも3割には届かなかった

とはいえ、打率は、

  • 1年目の1976年(22歳)が2割7分7厘
  • 2年目の1977年(23歳)が2割7分6厘
  • 3年目の1978年(24歳)が2割7分4厘
  • 4年目の1979年(25歳)が2割5分1厘

と、なかなか、一流打者の証である3割の壁は打ち破れないでいたそうです。

そして、5年目の1980年、26歳の時には、初めて3割打者を狙えるところまでくるも、最終的には、惜しくも打率2割9分9厘で終わってしまいます。

27歳の時に初めて打率3割を記録

しかし、田尾安志さんは、1981年、27歳の時には、ついに、打率3割3厘を記録しています。

というのも、実は、田尾安志さんは、5年目の1980年、26歳の時、あともう少しで3割に手が届く所まで来ていたシーズン終盤の残り2試合の時に、骨髄炎で療養していた弟の吉兼さんの容体が良くないことを、親戚の人からの連絡で知ったそうで、

(3割がかかっていたことから、両親が気遣って連絡をくれなかったそうです)

田尾安志さんは、吉兼さんの容体がそれほど悪くなっているとは全然知らず、3割なんかいつでも打ってやると、残りの2試合を休ませてもらい、すぐに故郷の香川に戻ったそうですが、

到着した時には、吉兼さんはもう延命措置を取られている状態だったそうで(田尾安志さんが帰ってくるまではと取られた措置だったそうです)、意識はなく、24歳の若さで他界されたのだそうです。

この時、田尾安志さんは、仲の良かった吉兼さんのためと、連絡をためらっていた両親の思いに応えるためにも、改めて3割を打つ誓いを立てたそうで、

見事、翌年、打率3割を達成したのでした。

ちなみに、田尾安志さんは、

次の年(1981年)は亡くなった弟のためにも、両親のためにも、「いつでも打ってやるわ」と言い放ったぐらいなので、絶対に3割を打ちたかった。正直なところ、ちょっとプレッシャーはありました。

と、語っています。

(吉兼さんは、田尾安志さんよりも体が大きく野球もやっていたそうですが、高校卒業して働き出した時に病気が発覚し、療養しなければならなくなったそうで、ちょうど、田尾安志さんがプロに入って契約金をもらった時期だったこともあり、生まれ育った大阪よりも空気の良い田舎の方がいいとの考えから、両親の故郷である香川県三豊市に家を建て、ここで、吉兼さんに両親の面倒を見てくれるようにお願いして、一緒に住んでもらっていたのだそうです)

27歳~30歳の時には4年連続3割以上マーク、28歳~30歳の時には3年連続最多安打

そんな田尾安志さんは、

  • 1981年~1984年(27歳~30歳)には、4年連続3割以上
  • 1982年~1984年(28歳~30歳)には、3年連続最多安打
  • 1982年(28歳)には、最多出塁数(現・最高出塁率)のタイトルを獲得し、リーグ優勝に貢献
  • 1982年(28歳)には、西武ライオンズとの日本シリーズ全6試合に右翼手・1番打者として先発し、23打数7安打1打点

などを記録し、セ・リーグを代表する打者へと成長しています。

1982年頃の田尾安志
1982年頃の田尾安志さん。

田尾安志は30代の時には電撃トレードで西武ライオンズに移籍するも森祇晶監督を嫌い2年で阪神に移籍

31歳の時には電撃トレードで西武ライオンズに移籍

しかし、田尾安志さんは、1985年、31歳の時、キャンプイン直前に、杉本正投手・大石友好捕手との2対1の交換トレードで西武ライオンズに電撃移籍。

田尾安志さんは、4年連続打率3割、3年連続セ・リーグ最多安打、オールスターゲームにも5年連続出場するなど、実力と人気を兼ね備えた中日の主力打者だったことから、

全然、予想していなかったです

と、語るほど、寝耳に水のトレードだったそうです。

(ファンからトレード反対の署名運動が起きる事態に発展しました)

31歳の時に電撃トレードとなったのは中日球団から嫌われていたから?

とはいえ、後から考えると、思い当たる節があったそうで、

田尾安志さんは、当時、中日の選手会長を務めていたそうですが、

選手に(球団への)要望をキャンプ中に聞いて、キャンプ後半に選手からこういう話が出ていますって代表に伝えていたんですけど、たぶん個人的に嫌われていたんでしょうね。

今みたいに選手会が強いという時期ではなかったんでね。できる範囲で結構ですので、よろしくお願いしますと普通に下手に出ていたんですけど、それでも嫌がられていた感じでした

と、球団フロント、特に鈴木代表から嫌われており、トレードを通達された時には、「やられたな」と思ったのだそうです。

(優勝した年(1982年)のオフに、牛島和彦投手のお給料があまりに上がらないため、堀田一郎球団社長の自宅まで行って「何とかなりませんか」と言ったこともあったのだそうです)

32歳の時には自らトレードを志願していた

こうして、西武にトレードされた田尾安志さんは、移籍1年目の1985年、31歳の時には、開幕から3番打者として起用されたそうですが、打率2割6分8厘と伸び悩み、

翌年の1986年、32歳の時も、106試合の出場にとどまって打率2割6分5厘に終わってしまったことから、管理部長の根本陸夫さんにトレードを志願したといいます。

(一方、チームとしては、2年連続リーグ優勝、1986年には、広島東洋カープを下し、3年ぶりの日本一に輝いています)

西武時代の田尾安志
西武時代の田尾安志さん(右)と広岡達朗監督(左)。

というのも、西武ライオンズ2年目の1986年、広岡達朗監督から森祇晶監督に代わっているのですが、物事の進め方など、田尾安志さんとは意見が合わず、清原和博さんにどこを守らせるかでも、意見が食い違い、このことがきっかけで、出番が少なくなったそうで、

1986年の日本シリーズには使ってもらったものの、翌年のことを考えると冷遇されることが予測できたため、根本陸夫さんにトレードに出してくれるようにお願いしたのだそうです。

ちなみに、根本陸夫さんには、「何かあったのか?」と尋ねられ、

田尾安志さんが、正直に、

もう森さんの下では、やりたくありません。裏表がありすぎます

と、答えると、

根本陸夫さんには、「横浜でもいいか?」と聞かれたため、二つ返事でOKしたそうで、すっかり横浜大洋ホエールズに移籍するつもりでいたそうですが、なんと、新天地は阪神タイガースだったそうです。

33歳の時に阪神タイガースに移籍

こうして、田尾安志さんは、1987年、33歳の時には、吉竹春樹選手・前田耕司投手との交換トレードにより、阪神タイガースに移籍するのですが、

阪神移籍1年目の1988年、34歳の時には、勝負よりも若手起用を優先する村山実監督の考えに賛同できす、ベテランの一人として、

若手、若手もありでしょうけど、それよりも勝つためにどうするかを考えた野球をしてほしい

と、選手の思いをはっきりと述べると、

以降、風当たりがきつくなったそうで、その後、1打席の内容(代打で見逃しの三振)を理由に二軍行きを命じられたのだそうです。

34歳の時には村山実監督との確執から出場機会が減るも3本のサヨナラ本塁打を放っていた

そして、その時、村山実監督が、自分をクビにしようとしていることを肌で感じたという田尾安志さんは、この仕打ちに反発心を抱き、村山実監督が阪神の監督をしている間は、絶対にユニホームを脱がないと決め、猛練習に励み、やる気があることをアピールして、一軍に上げざるを得ない状況を作ろうと思ったそうです。

そして、その後、一軍に復帰すると、この年(1988年)は、先発出場が減り、代打で登場することが多かったことから、打率は2割2分1厘だったものの、4本の本塁打のうち3本がサヨナラ本塁打という活躍を見せたのでした。

(シーズン3本のサヨナラ本塁打は1993年にヤクルトスワローズのジャック・ハウエル選手が5本に更新するまで、当時のプロ野球記録でした)

阪神時代の田尾安志
阪神時代にサヨナラ本塁打を放つ田尾安志さん。

37歳で現役を引退

しかし、そんな田尾安志さんも、1991年、37歳の時には、現役を引退しています。

そのきっかけとなったのは、前年から指揮を執っていた中村勝広監督に、

ファーム(二軍)に行ってくれ

と、言われたことだったそうで、

(この年はベテラン勢の調子が悪く、田尾安志さんより成績の悪い選手もいたそうです)

田尾安志さんは、

監督、思い通りの野球をやってください。僕はきょう、(現役生活を)やめてもいいです

と、答えたそうです。

これに対し、中村勝広監督から、代打で必要だと言われたら、頑張ろうと思っていたそうですが・・・

返ってきた答えは、

お前、それでいいのか?

だったそうで、

田尾安志さんは、自分が戦力として必要されていないのだと分かり、引退を決意したそうで、その日のうちに阪神球団に引退することを告げたのだそうです。

田尾安志が40代~60代の時には楽天の初代監督ほか俳優も

そんな田尾安志さんは、現役引退後は、野球解説者、野球評論家として活動するほか、「プロ野球ニュース」のメインキャスターや「週刊!田尾スポ」の司会などのタレント活動、映画「釣りバカ日誌9」に俳優として出演するなど幅広く活動しています。

また、

  • 2001年(47歳)には、アジア大会で全日本代表チームのコーチ
  • 2005年(51歳)には、東北楽天ゴールデンイーグルスの初代監督(2005年9月25日に退任後は、野球解説者としての活動を再開)
  • 2019年(65歳)には、琉球ブルーオーシャンズのエグゼクティブ・アドバイザー

などにも就任しています。

楽天の監督時代の田尾安志
東北楽天ゴールデンイーグルスで監督を務める田尾安志さん。

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田尾安志の現在は心アミロイドーシスで闘病中

そして、田尾安志さんは、2022年5月30日には、自身のYouTubeチャンネルで、特定疾患の心アミロイドーシスに罹患したことを公表しているのですが、

2024年現在も治療を続けながら、野球評論家として活動しています。

田尾安志
解説者を務める田尾安志さん。

「田尾安志の病気は心アミロイドーシス(指定難病)で現在も治療中!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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