五代 桂文枝(当時・桂小文枝)さんに弟子入りした当初はパッとしなかった、六代 桂文枝(ろくだい かつら ぶんし)さんですが、その才能が開花するのには、ほとんど時間はかかりませんでした。


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年齢は?出身は?身長は?本名は?国籍は?

文枝さんは、1943年7月16日生まれ、
大阪府堺市北野田(現・東区)のご出身、
(大阪市大正区・港区育ち~現在は池田市在住)

身長173センチ、

血液型はO型、

本名は、
河村静也、

名称は、
桂三枝(1966~2011年)
⇒6代目桂文枝(2011年~ )

学歴は、
大阪市立北恩加島小学校
⇒大阪市立市岡中学校
⇒大阪市立市岡商業高等学校
⇒関西大学商学部第二部商学科中退

趣味は、
ウクレレ、絵を描くこと、散歩、
リカンベント(自転車の一種)、船舶、

ちなみに、ネット上では、国籍が、
朝鮮(在日韓国人)と噂されていますが、

文枝さんの祖先は、武家の出で、菩提寺(先祖の位牌を納めているお寺)が、
岐阜県本巣市文殊(旧: 本巣郡文殊村文殊)の善永寺にあることや、
お父さんが銀行員だったことから、日本人と思われます。
(1970年頃まで、銀行員は、日本人しかなれなかったため)

好奇心旺盛な少年時代

文枝さんは、1944年、生後11ヶ月の時、
野村銀行(現・りそな銀行)の銀行員だったお父さんが、
戦地に赴く前に陸軍病院(現・大手前病院)で、
「肺結核」のため他界され、

そのため、お母さんは、河村家から、
まだ赤ちゃんだった文枝さんを引き渡し、
離縁するように迫られたそうですが、拒否。

お母さんは、文枝さんを連れて家を出て、
大阪の大正区に隠れ住んだそうです。

そんな環境にもかかわらず、
文枝さんは好奇心旺盛で何でも興味を持ち、
小~中学時代にはコーラス部や絵画部に所属、

この頃から、人前に出たり、
何かを表現することが好きな少年だったそうです。

高校でレツゴー正児を見て漫才に目覚める

そして、文枝さんは、
高校では、演劇部に入部されるのですが、

そこで、先輩の直井正三(後のレツゴー正児)さんが、
部員と漫才をしている姿を見て、
人を笑わせることに興味を持ったそうで、

同級生とコンビを組み、参加型の演芸コンテスト番組、
「漫才教室」(ラジオ)に出演すると、

あれよあれよと勝ち抜き、
たちまち、大阪の人気者に。

高校時代の文枝さん。

(※「漫才教室」とは、毎回一般公募で選ばれた3組が参加し、
 初等科(1週目)、中等科(2週目)、高等科(3週目)、卒業試験(4週目)
 と名付けられた「課題」を勝ち抜いて「進級」していくというルールで、

 賞金は、初等科合格で2000円、中等科合格で4000円、
 高等科合格で6000円、卒業試験合格で1万円。

 当時、高校生のアルバイトが1日500円だったそうなので、
 文枝さんは、かなりの金額を稼いでいたことがわかります)

漫才に挫折~アマチュア落語家として活動開始

しかし、プロの漫才師として活躍していた、
先輩の舞台を見ると、自信を失い、

大学進学後、学内で開かれた落語会で、
当時、上方落語の若手人気ナンバーワンだった、
桂米朝さんの落語を見ると、

自分が打ち込むべき対象は落語なのではないか

と、直感的にひらめいたそうで、

1964年、創設間もない、
「関西大学落語大学」の一期生として入部。

ロマンチックをもじった、「浪漫亭ちっく」の芸名で、
アマチュア落語家として活動をスタートすると、

これまた、他の大学の学園祭に呼ばれるほど、
人気を博したのでした。

桂小文枝に弟子入り

そんな文枝さんは、大学在学中の1966年には、
早稲田大学の落語研究会にいた都家西北(みやこや せいほく)さんが、
6代目三遊亭圓生さんに弟子入りするという話を聞いて、
落語家への憧れが強くなり、弟子入りを決意。

ある日、番組出演等で知り合われた、藤井康民さん
(当時、松竹芸能文芸部員で、後のケーエープロダクション社長)に、
桂小文枝さん(後の五代目桂文枝)の弟子になりたいと打ち明けると、

たまたま、同じ場所に居合わせた高校の先輩の、
2代目桂春蝶(かつら しゅんちょう)さんに、

これから小文枝師匠とこ稽古行くさかい、
ついて来るか? どうや?

と言われ、連れて行ってもらうのですが、

文枝さんが弟子入りを志願するも、

大学出は嫌や

と、小文枝さんは弟子入りを拒否。

しかし、最終的には、藤井さんがすべて責任を持つ、
という形で弟子入りが許され、

同年12月1日、文枝さんは、
「桂三枝」と名付けられたのでした。

入門当初の文枝(当時・桂三枝)さん(左)と五代目桂文枝(当時・桂小文枝)さん。

「ヤンタン」で大ブレイク

しかし、翌年の1967年には、
道頓堀角座で初高座(初舞台のこと)に上がるも、

まったくウケず、客席は静まりかえり、
早くもプロの厳しさを思い知ることになります。

そして、その後も、文枝さんの落語はお客さんにウケず、
しばらくは苦悩の日々を過ごされるのですが・・・

同年秋、深夜ラジオ番組「歌え! MBSヤングタウン」
(通称ヤンタン)のオーディションに参加し、
マカロニ・ウェスタン映画を題材にした新作落語を披露されると、
ディレクターの渡邊一雄さんの目に止まり、番組出演が決定。

すると、この番組で、文枝さんは、

ひとりぼっちでいる時のあなたに、
ロマンチックな明かりを灯す、便所場の電球みたいな桂三枝です。

ほか、

「オヨヨ」
「グー!」
「いらっしゃーい」
「アリーッ!」

などのギャグで、一躍、大ブレイク。

半年後には、番組は、
若い世代を中心として熱狂的な支持を得、
押しも押されぬ人気番組となったのでした。

(同時期、文枝さんは、その活躍から吉本興業にスカウトされ、
 専属の落語家として吉本興業に入社されています)

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タレントして頂点に

その後、文枝さんには、
テレビやラジオほか出演オファーが殺到。

1969年5月「うめだ花月土曜寄席」で開催された、
初のリサイタル「桂三枝と遊ぼう」では、
超満員の1397人を動員するほか、

「ヤングおー!おー!」(1969~1982年)
「新婚さんいらっしゃい!」(1971~ギネス記録更新中)
「パンチDEデート」(1973~1985年)

「ヤングおー!おー!」より。
文枝さん(当時は桂三枝)と明石家さんまさん。

と、司会を務めたバラエティ番組が
次々と高視聴率を記録するなど、

文枝さんは、全国区の人気タレントとして、
頂点を極めたのでした。

「桂文枝の嫁は?息子は?娘は?紫艶との不倫騒動でベッド画像も流出!」に続く

https://www.youtube.com/watch?v=hvTpOw2VfPI

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