1972年、「純愛時代」でアイドル歌手デビューするも、鳴かず飛ばずだった、田中健(たなか けん)さんですが、声をかけられるがままに、俳優に転向すると、その後はトントン拍子で進んでいきます。
「田中健は若い頃アイドル歌手デビューするも売れなかった!」からの続き
斎藤耕一監督に俳優転向を勧められる
1972年、「純愛時代」でアイドル歌手デビューした田中さんですが、1年ほど活動するも全く売れず、さらには、追い打ちをかけるように、所属事務所が倒産してしまったそうで、
このままでは食べていけないと、しぶしぶ、故郷・福岡に帰ろうと荷物をまとめていたそうですが、そんな時、当時、所属していたコロンビアレコードのディレクターから、
映画監督を紹介したいから、飲みにいかないか?
と、1本の電話が。
そこで、飲みに行くと、そのディレクターは斎藤耕一監督を紹介してくれ、斎藤監督からは、「お前、映画をやったら」と俳優に転身することを勧められたそうで、
田中さんは、俳優に転身するとは思いもよらなかったそうですが、一度デビューしておいて、故郷に戻ることが嫌だったことから、
そんな道があったのか
これで博多に帰らないで済む、東京に残れる
と、この勧めを受け入れたのだそうです。
女優・天路圭子の猛プッシュを受ける
その後、田中さんは、(詳しい経緯は不明ですが)斎藤監督の奥さんである女優の天路圭子さんがママをやっていた青山のスナックで、ギターの弾き語りを始めるようになったそうですが、毎日通ってギターを弾いていたところ、そんな熱心なところが天路さんに気に入られたそうで、
(天路さんは、まだ無名だった天地真理さんを見出し、世話をしていたこともあったそうです)
天路さんには、田中さんを役者として売り出そうと、1973年、「天路プロダクション」を設立してもらったうえ、スナックのお客さんとして来ていた、作家、プロデューサー、映画監督などに、猛烈に売り込んでもらったのだそうです。
(田中さんは、この時、芸名も、「あおい健」から現在の「田中健」となったそうです)
映画「青春の門」で脚光を浴びる
こうして、田中さんは、片っ端から俳優のオーディションを受けたそうですが、演技経験ゼロだったにもかかわらず、次々と合格したそうで、
1974年には、「春のもつれ」(八千草薫さん、二谷英明さん主演)でテレビドラマデビューすると、これが、熊井啓監督の目に留まり、同年、映画「サンダカン八番娼館 望郷」では、主演の高橋洋子さんの恋人役に抜擢。
「サンダカン八番娼館 望郷」より。田中さんと高橋洋子さん。
そして、翌年の1975年には、映画「青春の門」で主人公・伊吹信介役に抜擢されると、眉の太い男性的な風貌と、一途さを感じさせる雰囲気が、役柄とぴったりとマッチし、田中さんは、たちまち脚光を浴びたのでした。
「青春の門」より。田中さんと吉永小百合さん。
八千草薫ほか共演者やスタッフに気に入られていた
ちなみに、田中さんは、
今から思い返すと、当時、仕事も無く不安で不安で仕方がない日々を過ごし、目だけがギョロギョロと光っていたのが、「サンダカン八番娼館 望郷」や「青春の門」の役柄に合っていたのかもしれません。それに、運が良かったのだと思います。
と、語っているほか、
演技の基礎は何もないし、映画のことは何も知らないのに、オーディションは受かるんです。熊井監督のことすら、よく知りませんでした。
あの時は、高橋洋子ちゃんの演じる娼婦の恋人役でしたが、彼女が何人も客をとって疲れて倒れたのを見て「チクショウ!」と叫ぶ場面があるんです。
これが言えなくて。魂が入っていない。それで、二十三回も熊井監督からNGが出ました。あまりにセリフが甘い、と。仕方ないので、後でオンリー(セリフの音だけを録る)になったんです。それも五十回くらいかかりました。
それなのに、今度は、その撮影中に、東宝の「青春の門」のオーディションがあって、「サンダカン」の衣装のまま行ったら、受かっちゃった。それで、「こいつを育てて売っていこう」というラインに乗った訳です
とも、語っているのですが、
デビュー作「春のもつれ」、テレビドラマ「俺たちの旅」などで共演した、八千草薫さんについて、
最初にセリフのある芝居(春のもつれ)をした相手は八千草薫さんでした。あまりに僕が下手なものだから、大変ご迷惑をおかけして。
以来、八千草さんにはずっと頭が上がりません。会う度に「健ちゃん、大丈夫?」という顔をして。いつも温かい目で見ていただきました。
その後の「俺たちの旅」では親子役でしたが、その時の感じを引っ張っているので、本当の親子みたいな感じが出ていたのかもしれません
と、語っていることから、
多くの共演者、スタッフに気に入られていたようです。