「3年B組金八先生」「101回目のプロポーズ」ほか数々の大ヒットドラマに出演し、日本の国民的人気俳優の地位を確立されている、武田鉄矢(たけだ てつや)さん。今回はそんな武田さんのルーツである両親について、曽祖父にまでさかのぼってご紹介します。

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年齢は?出身は?身長は?

武田さんは、1949年4月11日生まれ、
福岡県福岡市博多区のご出身、

身長165センチ、
体重69キロ、

血液型はO型、

学歴は、
福岡県立筑紫中央高等学校
⇒福岡教育大学教育学部障害児教育教員養成課程中退(7年在籍した後中退)

趣味は、読書、柔道、ゴルフだそうです。


幼少期の武田さんとお母さん。

本名は?

ちなみに、「武田鉄矢(たけだ てつや)」は本名なのですが、武田さんは、両親から「鉄也」だと教えられており、大学生になるまで、「鉄也」だと思いこんでいたそうです。

それが、大学で、試験の時、記入した氏名に対して、担当教官から「ペンネームを使うな」と指摘され、初めて自分の本名を知ったそうで、当初は困惑したそうですが(両親も指摘されるまで忘れていたそうです)、

段々と受け入れることができるようになり、現在は届け通りの本名「鉄矢」を使用されているのだそうです。


中学時代の武田さん。

また、武田さんの母方は、武田氏(平安時代末から戦国時代の武家)を祖先に持ち、第56代清和天皇(850-881年)の流れをくむ清和源氏武田氏族の一族だそうです。

曽祖父が大地主も祖父が破産

まずは、武田さんの話の前に、今では想像できない時代背景のため、武田さんの両親のお話から。

武田さんの母方のひいおじいさん・武田喜十郎さんは、熊本県阿蘇郡南小国町中原(なかばる)樋ノ口で、区長や南小国村村会議員をしていた大地主だったのですが、1927年に他界されると、その後、一人息子だった計早蔵(けさぞう)さん(武田さんの祖父)が先物取引で失敗し、瞬く間に破産。

計早蔵さんの次女・穴井キワさん(武田さんの叔母)によると、計早蔵さんは、久しぶりに家に帰って来て、

あさってかえるけんね

と、言って出て行ったきり、二度と家族のもとに姿を現すことはなかったそうで、その後、妻のヒロさん(武田さんの祖母)は、計早蔵さんと離婚されたそうです。

(生死がわからなくなってから所定の年数を経過した場合離婚扱いにすることが可能)

ちなみに、現在も計早蔵さんの消息は分かっていないそうですが、借金返済のため、所有権を次々と他人に移転していたことが、武田家の不動産登記簿謄本から見つかっているそうです。

母・イクは8歳で里子に出され12歳で奉公に

こうして、当初は、裕福な家のお嬢様として育った、武田さんの母・イクさんでしたが、一家が破産したことで、口減らしのため、わずか8歳で博多の親戚に里子に出されることに。


幼い頃の武田イクさん。

さらに、イクさんは、12歳の時には、突如、その里親からも、

うちも家計が苦しい、あとは自分で生きてほしい

と、言われ、住み込みで働ける場所を探すことを余儀なくされてしまったそうで、


12歳の頃の武田イクさん。

里親からも見放されたイクさんは、洋服店「池田屋支店」に奉公に出られると、一番下の弟子として反物(たんもの)を抱えて何往復もする毎日で、睡眠時間は1日たったの4時間。

それでも、イクさんは、「池田屋支店」がアメリカ製の業務用ミシンをいち早く導入していたことから、「ミシンを覚えたい」という情熱を持つようになったそうで、その熱い気持ちがミシン職人達の心を動かし、ミシンを教わることができたそうで、イクさんは見事ミシンを習得することができたのでした。

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両親の出会い

その後、イクさんは奉公を終え、里親の元に挨拶に出向くのですが、その際、幼なじみの村上嘉元さん(武田さんのお父さん)に出会われたそうで、やがて、二人は急速に距離を縮め、交際に発展。

結婚を意識するようになったイクさんは、あるとき、

武田の家を残すために、婿に入っていただけませんか?

と、ずっと胸に秘めていた思いを思い切って打ち明けると、嘉元さんはイクさんの願いを黙って受け入れ、家族を説得してくれたそうで、お二人はめでたく結婚。

結婚式は挙げられなかったそうですが、イクさんは日本髪に結った記念写真を一枚だけ撮られたのでした。

「武田鉄矢の若い頃は海援隊!財津和夫に解散危機に追い込まれていた?」に続く

武田さんの両親、武田イクさんと武田嘉元さん。

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