「長七郎江戸日記」「忠臣蔵」「水戸黄門」など数多くの時代劇に出演し、戦後、日本を代表するスターとなられた、里見浩太朗(さとみ こうたろう)さん。今回は、そんな里見さんのルーツであるご両親についてご紹介します。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?旧芸名は?

里見さんは、1936年11月28日生まれ、
東京都渋谷区道玄坂生まれ(静岡県富士宮育ち)、

身長173センチ、

血液型はA型、

本名は、「佐野邦俊(さの くにとし)」

学歴は、
静岡県立富士宮北高等学校商業科
(中学時代はテニス部、高校時代は音楽部に所属)

趣味は、
絵を描くこと、ゴルフ、

ちなみに、芸名は、「鏡小五郎」「富士川一夫」「里見浩太郎」と変更され、1970年より、現在の「里見浩太朗」(「ろう」違い)とされています。

祖先は武田信玄の父の家臣

里見さんの父方の「佐野家」は、山梨県南部町井出というところにあり、初代の佐野光次は、戦国時代、武田信虎(武田信玄の父親)に仕える武将だったそうで、以降、代々武田家の家臣として仕える由緒正しい家柄だそうです。

また、おじいさん・勝三郎さんの代には、農業・林業のほか、塩の販売も手掛けるなど、村で一、二を争うほどの財産家だったそうです。

ただ、里見さんのお父さん・亀一さんは、13人兄弟の末っ子ということで、

こんな田舎にいても、自分は飯を食っていけないんじゃないか

と、一念発起し、家を飛び出されたのでした。

父親は近衛連隊⇒帝国陸軍憲兵隊

そんな、亀一さんは、19歳で志願して日本軍の「近衛連隊」に所属すると、その後は、帝国陸軍の「麹町憲兵隊」に転属。

ちなみに、明治・大正以降の「陸軍・近衛連隊」というと、天皇と皇居を守る部隊で、いわゆるエリート。

里見さんは、ご主人が戦争中に「近衛連隊」に配属されていたという、ある婦人から、

里見さん、近衛連隊に入るということは大変なんですよ。しかも憲兵になるなんてなおさら。よっぽど頭がいいか、努力したか。そうでなければ憲兵にはなれません。

と、言われたことがあったそうで、

おそらく、何度も試験を受けたのではないかと、里見さんは推測されていました。

父親は割腹自決で英雄と報じられた

その後、いつ頃かは不明ですが、亀一さんは、東京・秋葉原のパン屋で働いていた静岡県松野村出身の木伏エツさんに出会われると、交際に発展し、結婚。里見さんが誕生します。

ただ、亀一さんは、里見さんがまだ生後8ヶ月の赤ん坊だった頃に、「盧溝橋事件」により、「支那駐屯憲兵隊」に臨時増加配属を命じられ、同年9月、中国に渡られると、山西省の小塞村(平型関の入り口)というところで、戦死されてしまったのでした。

ちなみに、亀一さんの戦死は、当時、「割腹自決」として新聞に大きく報じられ、英雄として祀り上げられたそうですが、後に、同じ部隊にいた憲兵仲間の手紙により、負傷しながらも軍刀を抜き、反撃しようとしたところを、手榴弾を受けて亡くなったことが判明したそうです。

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父親は写真で見たかっこいいイメージのみ

ところで、亀一さんは、日本にいる妻のエツさんと息子(里見さんのお兄さん)に向けて、

中国に上陸したが、ことのほか中国兵の抵抗は激しく、前進できない。いったん本艦に引き揚げて艦砲射撃を数分行った。港に大砲を打ち込んで上陸をすると、抵抗は収まり、前進することが決まった。これから万里の長城へ向かう。

という、手紙を書き送っていたそうですが、

その手紙が届く前に、妻のエツさんは、

長靴が地面をコツコツと弾く音が聞こえて、うちの玄関がガラガラっと開いた。サーベルがガチャガチャ鳴る音もする。あら、今頃は北支にいるはずのあの人がなぜ帰って来たのかしら。

という、夢を見たそうで、亀一さんの帰宅を不思議に思っているところで目がさめると、

その夢を見た翌日に、お父さんの戦死の知らせが届いたそうで、

里見さんは、

あれはきっと、虫の知らせというやつだったのかな……

と、おっしゃっていました。

ちなみに、里見さんは、その当時、まだ赤ちゃんだったため、お父さんの存在というのは、

腰にサーベル提げて馬に乗り、憲兵の腕章をつけて、コールマン髭をたくわえている

という、写真で見たかっこいい姿のイメージしかなかったそうです。

「里見浩太朗は昔は築地で働いていた!NHKのど自慢にも出場!」に続く

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