高校卒業後は、お母さんの溺愛による過干渉から逃れるため、地元・大阪ではなく、東京の日本女子大学文学部国文学科に進学するも、寮生活では、格差ゆえの差別に苦しめられた、橋田壽賀子(はしだ すがこ)さん。大学卒業後は、国語学者を志して、早稲田大学国文科に進学されるのですが、そこで演劇と出会います。

「橋田壽賀子の生い立ちは?高校時代は文章を書くのが苦手だった!」からの続き

Sponsored Link

国語学者を目指し早稲田大学に進学

橋田さんは、日本女子大学の卒業論文で、新古今和歌集における「つ」と「む」の研究に勤しまれると、大学卒業後は、卒業論文の指導をしてくれた国語学者の大野晋さんの影響を受け、国語学者になりたいと、東京大学の国文科を受験されるのですが、残念ながら不合格に。

そこで、第二志望だった早稲田大学国文科を受験されると、合格されます。

(この時、会社経営をしていたお父さんが、橋田さんと弟子を結婚させると決めていたそうですが、橋田さんが嫌がり、大阪に帰らずに東京にとどまったため、お父さんからは勘当されてしまったそうです)

久板栄二郎氏の脚本塾に通う

こうして、早稲田大学に進学された橋田さんは、早稲田の学生演劇集団の一つ「小羊(しょうよう)座」から、(女子がいなかったため)女優をやらないかと誘われ、劇団に入団するのですが、いざ入団してみると、ばあさんや頭の悪い女の役ばかり。

全然おもしろくない、と思っていたところ、友人に誘われて、脚本家の久板栄二郎さんの脚本塾に通い始めると、

演劇を書くのは面白い

と、創作の喜びに目覚められたのでした。

(いつ頃かは不明ですが、演劇に興味が湧いたことから、芸術科に転科されたそうです)


早稲田大学時代の橋田さん。

応募者1000人の中から「松竹」初の女性社員に採用される

そんなある日のこと、同級生の男の子に、

映画会社の松竹の入社試験を一緒に受けよう

と誘われ、「松竹」の大船撮影所脚本養成所が研修生を募集しているのを知ると、

映画の世界には興味がなかったものの、その友だちに「カンニングさせてあげるから」と言われたことや、実家を飛び出し、伯母さんの家に居候させてもらっていたため、とにかくお金がほしかったこと、そして、「松竹」が初めて女性を採用すると知ったことから、

脚本の書き方も教えてくれて、お金もくれる、こんないい仕事はない。

と、はずみで「松竹」を受験。

すると、当時、映画業界は、終戦後の娯楽として景気が良かったことから、1000人以上もの応募があったそうで、半年かけて25人、さらに1年かけて、たった6人に絞られたそうですが、橋田さんは、その6人のうちの1人に選ばれ、1949年、「松竹」初の女性社員となったのでした。

Sponsored Link

「松竹」の京都撮影所に配属

こうして、晴れて「松竹」大船撮影所脚本養成所に入所された橋田さんですが・・・

なんと、そこへ、橋田さんのお母さんから、

娘を不合格にしてください

と、「松竹」へ連絡が入ったというのです。

なんでも、「一人娘で家の跡継ぎだから」というのが理由だったそうですが、

もちろん、橋田さんは、

不合格にしないでほしい

と、「松竹」に懇願。

すると、結局、「松竹」が橋田さんとお母さん双方の希望の折り合いをつけ、橋田さんは、実家がある大阪に近い京都撮影所に配属されることになったそうで、

橋田さんは一旦は実家に戻られたそうですが、わずか2日で家を飛び出し、下宿して撮影所に通うようになったのだそうです。

(早稲田大学も京都からは到底通えず、中退されたのでした)

「橋田壽賀子の若い頃は松竹!少女漫画の原作や少女小説も書いていた!」に続く

Sponsored Link