テレビドラマ「おんな太閤記」「おしん」「渡る世間は鬼ばかり」などの脚本で著名な脚本家、橋田壽賀子(はしだ すがこ)さん。今回は、橋田さんの幼少期から少女時代をご紹介します。
年齢は?出身は?本名は?韓国人?
橋田さんは、1925年5月10日生まれ、
京城府(現・大韓民国ソウル)のご出身(大阪府堺市西区育ち)、
(韓国人ではなく日本人です)
血液型はB型、
学歴は、
大阪府立堺高等女學校(現・大阪府立泉陽高等学校)
⇒日本女子大学文学部国文学科卒業
⇒早稲田大学第二文学部演劇専修中退
趣味は豪華客船での船旅だそうで、1年のうち、100日ほどかけて世界一周のクルーズに行くこともあるそうです。(そのため、船旅中に書いた原稿は編集者がわざわざ海外まで取りに来るとのこと)
ちなみに、「橋田壽賀子」は本名です。(結婚後は、「岩崎壽賀子」)
幼少期は朝鮮半島で育つ
橋田さんは、戦前、チタンを産出する鉱山と土産店を営んでいたお父さんのもと、日本が統治する朝鮮半島で一人っ子として生まれると、お店を手伝いに出て忙しいお母さんに代わり、「オモニ(お母さん)」と呼ばれる近所の主婦に世話をしてもらって育ちます。
3歳頃の橋田さん。
(幼い橋田さんは、子どもがたくさんいるオモニの家に行くのが楽しかったそうです)
その後、小学4年生になる前に、「教育は日本で」との両親の意向で、お母さんと二人で大阪に戻られると、1934年には、大阪・堺市にある小学校に転入。
朝鮮育ちのため、大阪弁ではなく、標準語で本が読めた橋田さんは、同級生からは「朝鮮人」と言っていじめられたそうですが、取っ組み合いのケンカをして相手を負かしてしまうほど、負けん気の強い少女だったそうです。
(ただ、先生からは「教科書を読むのがうまい」とほめられていたそうです)
小学校時代(ソウル)の橋田さん。(後列左端)
高校生の頃は文章を書くのが苦手だった
その後、橋田さんは成長し、大阪府立堺高等女学校に進学されるのですが、意外なことに、高校生の頃は文章を書くことが苦手だったそうで、
戦地にいる兵士に慰問文を書かされた時には、お母さんに代わりに書いてもらい、しかも、その作文が当時住んでいた大阪の堺市から表彰されてしまい、
私が書いたんじゃないのに
と、困ってしまったこともあったそうです(笑)
高校時代の橋田さん。
大学での寮生活は格差に苦しめられる
とはいえ、橋田さんは、文章は苦手ながら、文法は好きだったため、大学は日本女子大学文学部国文学科に進学。
(日本女子大学を受験されたのは、受験会場が大阪にもあったことと、橋田さんを思い通りにしようとするお母さんの愛情が重すぎたため、母1人子1人の生活が嫌で、親元を離れるためでもあったそうで、お母さんには内緒での受験だったそうです)
ただ、日本女子大学での寮生活は、規則や上下関係が厳しかったうえ、士族や華族の子どもが多く、戦前の日本は格差社会だったため、
橋田さんが、最初のあいさつで、
こんなええ学校にはめてもろて
と大阪弁であいさつすると、
自分では、歴史ある大阪・堺の文化都市で育ったと、誇りに思っていたにもかかわらず、みんなに大爆笑され、
あなた、「はめる」っていうのは、 「指輪をはめる」ということでは、ありませんこと?
と言われて、周りからは下に見られるようになったそうです。
もともと、負けん気の強い橋田さんでしたが、この一件で心がポキっと折れてしまい、以来、話すのが怖くなり、ずっと黙っているようになったそうで、
名門でもなく、平民でなんの後ろ盾もなかった橋田さんは、差別や意地の悪い視線を感じながら、「なにくそ」と思いながら、大学生活を送られたのでした。
(そのため、終戦となり、格差や差別がなくなったことは、すごく嬉しかったそうです)
「橋田壽賀子は国語学者を目指していた!早稲田大では劇団で女優も!」に続く