高校生の時には、皮肉な結末の暗い漫画ばかり描くも、東映動画「白蛇伝」を観て、はっきりと、自分のしたいことに気づいた、宮崎駿(みやざき はやお)さんですが、お父さんは、芸術系大学への進学を反対。それでも、宮崎さんは、漫画家を志して、大長編漫画を描き続けていたのですが・・・

「宮崎駿が高校生の頃はシュールな暗い漫画を描いていた!」からの続き

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学習院大学「児童文学サークル」で人形劇を企画しつつ漫画を描き続ける

宮崎さんは、漫画家を志していたことから、芸術系の大学へ進学することを希望していたのですが、お父さんからは、「絵では飯が食えない」と言われて反対され、学習院大学政治経済学部に進学されています。

(実は、学習院大学には、幼い頃、イジメっ子から守ってくれ、唯一の「安全地帯」だった、お兄さん・宮崎新さんが在学していたそうで、宮崎さんは、学習院大学に行っている間は、漫画の仕事をするための「一時停止期間」と考えたそうです。)

また、当時、学習院大学には漫画サークルがなかったため、児童文学サークル(現在の児童文化研究会)に所属して、人形劇を企画しながら、漫画家を志して、大長編漫画を描き続けられていたそうで、

宮崎さんは、「天空の城ラピュタGUIDE BOOK」のインタビューで、

人形劇の公演を二回ぐらいやったり、機関誌を作ったりしていただけなんです。

精神病院が舞台でね、アルファ何号という少年とシータ何号という少女が出てくる話なんです。結局、人形劇として公演はされませんでしたけど。

パズー(「天空の城ラピュタの主人公)も学生のときに考えた船乗りの名前です。内容そのものは、ほとんどは「コナン」(「未来少年コナン」)で使っちゃって

と、語っておられます。

(ちなみに、宮崎さんは、学習院大学在学中、中学時代の恩師・佐藤文雄先生から油絵を習っていたそうですが、佐藤先生は、お兄さん以外では、唯一、宮崎さんの悩み事を聞いて、相談に乗ってくれる人だったそうで、宮崎さんは、たびたび佐藤先生を訪ねていたそうです。)

安保闘争の影響を受け自己主張できるようになる

こうして、児童文学サークルで人形劇の企画をしながら、漫画を描き続けていた宮崎さんでしたが、宮崎さんが大学に入った頃は、まだ安保闘争(1959~1960)の名残がキャンパスにも残っていたことから、それまで、政治活動にそれほど関心がなかった宮崎さんも、次第にその空気に影響されるようになり、

実家が、戦争中、軍用飛行機を作って大儲けしていたことを、強く恥じ、両親に対しても批判的なことを言うようになったそうで、お母さんと政治的な問題を巡って議論することもあったそうです。

そして、その際、お母さんがどうしても宮崎さんの主張を受け入れようとしないと、宮崎さんは、歯がゆさと悔しさのあまり、涙を流したこともあったのだそうです。

(ただ、幼い頃から、お母さんに対して、ずっといい子を演じてきた宮崎さんにとっては、この時初めて、自分自身のすべてを賭けて、お母さんに自分の主張をぶつけることができるようになったという側面もあったそうです。)

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漫画家を諦めアニメーターを志す

そんな宮崎さんは、学習院大学時代、様々な出版社に漫画の原稿を持ち込んでいたそうですが、ことごとく不採用だったそうで、次第に、漫画家を職業にする自信がなくなっていったそうです。

ただ、同時に、以前から興味を持っていたアニメーションに魅力を感じるようになっていったそうで、

劇画の世界と、東映の長篇アニメーションの世界と、どちらが表現方法として優れているかというので、ずいぶん自分でも悩み続けて、結局、アニメーションの方が優れているという結論を、自分なりに出してしまったんですね。

劇画はこどものためのものじゃないと思ったから、そうじゃない(こどもたちのためのものとしての)世界として、アニメーションにすごく魅力があったんです

と、ついに、宮崎さんは、アニメーションの道へ進むことを決意されます。

「宮崎駿は若い頃「雪の女王」を観てアニメーターになる決意をしていた!」に続く

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