会社を移籍してまで、スウェーデンの児童文学「長靴下のピッピ」のアニメ化に情熱を注ぐも、原作者の許可が下りずに、泣く泣くアニメ化を断念した、宮崎駿(みやざき はやお)さんですが、1971年には、あの「ルパン三世」のテレビアニメの制作に携わっています。

「宮崎駿は「長靴下のピッピ」のアニメ化のため東映動画を退社していた!」からの続き

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当初「ルパン三世」は低視聴率で打ち切り寸前だった

ところで、宮崎さんといえば、オールドファンの中には、「ルパン三世 カリオストロの城」を思い起こす方もいると思いますが、

そもそも、「ルパン三世」は、1971年、「日本初の大人向けアニメ」として制作されたのですが、当時、アニメは、作りさえすれば、そこそこの視聴率が取れた時代だったにもかかわらず、ルパンと峰不二子のからみや、退廃的な世界観など、アダルトな雰囲気が漂う第1シリーズは、一家団らんでテレビを見ていた1970年代の家庭の倫理観にはそぐわなかったようで、

お茶の間には受け入れられず、視聴率は低調を極め(最低視聴率は3%)、いつ打ち切りとなってもおかしくない状況だったのだそうです。


ルパン三世 テレビ第1シリーズ

窮地に陥っていた「ルパン三世」を高畑勲と共にテコ入れ

そんな中、「東京ムービー」の藤岡社長と、演出を担当していた大隅正秋(現・おおすみ正秋)さんの間で、今後、ルパンを、このまま大人向けアニメとして継続するのか、子ども向けアニメに転換するかで、意見が衝突したそうで、

最終的には、大隅さんが降板となり、ルパンは後任が決まらないまま、宙ぶらりんの状態に・・・

そこで、苦境に立たされた作画監督の大塚康生さんが、宮崎さんと高畑勲さんの二人に演出を依頼されたのでした。

(大塚さんとは、「太陽の王子 ホルスの大冒険」(1968)で、高畑さんと共に仕事をされています)

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「ルパン三世」は放送打ち切りも再放送でブレイク

そして、宮崎さんらが、原作の影響が強いハードボイルドだった作風を、ハードボイルドな部分は残しつつ、コミカルな要素を融合させるなど、徐々に低年齢層向けに変更し、キャラクターの性格も変更すると、

視聴率は、9%と当初よりは向上するも、やはり、一家団らんでテレビを観ていた当時のお茶の間には受け入れられず、結局、約半年後、23話で放送が打ち切りとなってしまったのですが・・・

その後、各局で頻繁に再放送されると、じわじわと人気に火が付き、数年後には、夕方枠だったにもかかわらず、局によっては、20%という異例の視聴率を記録。

これを受けて、第2シリーズが制作されると、第2シリーズもヒットし、


ルパン三世 TV第2シリーズ」より。

以降、

映画「ルパン三世 ルパンVS複製人間」(1978年)


ルパン三世 ルパンVS複製人間」より。

ルパン三世 カリオストロの城」(1979年)


ルパン三世 カリオストロの城」より。

ルパン三世 PARTIII」(1984年)


ルパン三世 PARTIII」より。

など、新作が次々と制作され、「宮崎ルパン」は、遅まきながら、高く評価されることとなったのでした。

「宮崎駿が若い頃は「アルプスの少女ハイジ」を大ヒットさせていた!」に続く

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