京都の清水寺境内で休憩所「舌切茶屋」を経営する3代目当主のお父さんと、その愛人で、祇園の芸子だったお母さんのもとに誕生した、近藤正臣(こんどう まさおみ)さんですが、今回は、そんな近藤さんの知られざる生い立ちをご紹介します。
「近藤正臣の先祖(曽祖父)は幕末尊皇攘夷志士の近藤正慎!」からの続き
母親は息子から見ても艶っぽい女性だった
近藤さんのお母さんは、恋愛に関して自由奔放で、色恋沙汰が途切れたことがなく、自身の男性遍歴を息子の近藤さんに語るほど、天真爛漫な人だったそうで、
(そのため、近藤さんには、お父さんの違う姉と妹がいるそうです)
ある日のこと、お母さんから、「今日からお父さんと呼びなさい」と、見ず知らずの男性の家に預けられ、そこから学校に通っていたこともあったそうですが、半年ほど経った頃、突然、お母さんに呼び戻されたそうで、
(その男性の家にも、たくさん子どもがいて、近藤さんも可愛がってもらったそうで、それなりに楽しい生活を送っていたそうです)
近藤さんは、そんなお母さんのことを、
子どもよりも自分の人生を優先するような母親だったけど、息子から見ても艶っぽくていい女だったなあ
と、語っておられます。
高校時代は演劇部で活動
そんなお母さんのもと、近藤さんは成長し、高校に入学すると、器械体操部に入ろうと、部室を探している時、間違えて演劇部の部室に入ってしまったそうですが、
演劇部を訪ねてきた新入生が近藤さんたった一人だったことから、大歓迎で迎えられたそうで、人のいい近藤さんは、そのまま演劇部に入部。
すると、高校演劇コンテストでは、戦争をテーマにした作品で、アメリカ兵と遭遇する日本兵を演じて絶賛されるなど、早くも演技の才能を発揮します。
大阪の料亭「吉兆」で板前修業するも3ヶ月で挫折
ただ、高校卒業後は、小料理店を継がせたいお母さんの意向で、大阪の料亭「吉兆」に板前修業に出されたそうで、来る日も来る日も洗い物ばかり。しかも、洗う物はというと、器ではなく、鍋ばかりで、うんざりする毎日だったそうですが、
それでも、近藤さんは、鍋の底に残っている汁をなめ、味を知りたいと思ったそうですが、考えることはみな同じで、先輩たちがすでに全部飲んでしまっていて、味を試すこともできなかったそうで、
こんなのは修業じゃない
と、伝統的日本料理界のしきたりに嫌気が差し、3ヶ月で辞めてしまいます。
アングラ劇団「ドラマ工房」を立ち上げるも経済的に困窮
その後は、日がな一日、ぶらぶらしていた近藤さんですが、やがて高校で始めたお芝居で身を立てようと考え、友達を15人集めて、アングラ劇団「ドラマ工房」を立ち上げ、活動を始めたそうですが・・・
素人の劇団がうまくいくはずもなく、友人の家を泊まり歩く日々。
友人たちと夜通し演劇論を戦わせては、明け方、円山公園でクリームパンやジャムパンと牛乳一本を買い、仲間3人で、パンを分け合い、1本の牛乳を回し飲みしたそうで、
近藤さんは、当時を振り返り、
ろくにカネもないくせに皆で空腹をやせ我慢してパンの切れ端をハトにやっていた。それだけが唯一の優越感。いまから思うと寂しい突っ張りだったね
と、行く末を考える日々が続いたそうです。
学生運動に参加していた
そんな中、時代は60年安保闘争だったことから、近藤さんは、喫茶店で知り合った、京都大学、同志社大学、立命館大学の学生の影響で、反権力に目覚めていったそうで、
世の中なにかおかしくないか
と、デモの先頭に立つなど、学生運動に参加していたこともあったそうです。
「松竹」大船撮影所と契約するも端役が続く日々
そんな近藤さんは、やがて、京都大学など近隣の大学の演劇部の斡旋(あっせん)で、「松竹」京都撮影所(時代劇)のエキストラに参加して食いつなぐようになったそうですが、
20歳の時、撮影所が閉鎖されると、「松竹」京都撮影所の助監督に、
(松竹)大船撮影所に来ないか
と、誘われて上京。
上京後は、「松竹」大船撮影所の専属契約の大部屋俳優として活動することになったそうですが・・・
最低のCランクだったそうで、通行人の役など、エキストラ同然の端役ばかりで、お給料はたったの月3000円。
やがて、極貧生活に耐えられず、実家に戻ったそうで、
近藤さんは、当時を振り返り、
スターも監督も文学座も俳優座も劇団民藝も・・・。すべてが反抗すべき権力にみえた
と、語っておられます。
「近藤正臣が若い頃は「柔道一直線」で大ブレイクしていた!」に続く