1966年、24歳の時、今村昌平監督の「エロ事師たち 人類学入門」で映画デビューして以来、80歳に差し掛かろうという現在も、活躍を続けている、近藤正臣(こんどう まさおみ)さんですが、今回は、そんな近藤さんのルーツについてご紹介します。

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年齢は?出身は?身長は?

近藤さんは、1942年2月15日生まれ、
京都府京都市東山区(現・山科区域)のご出身、

身長172センチ、
体重64キロ、

血液型はO型、

靴のサイズは24.5センチ、

肩幅42センチ、股下77センチ、頭周55センチ、首周37センチ、

学歴は、
京都市立立誠小学校
⇒京都府立洛東高等学校卒業

趣味は、
釣り、陶芸、山菜採り、

好きな食べ物は、お茶漬け、

嫌いな食べ物は、チーズ、

(NHK大河ドラマ「龍馬伝」では、大酒飲みの山内容堂を演じておられましたが、ご本人いわく、実際はアルコールは全くダメとのこと)

ちなみに、陶磁器の人間国宝である近藤悠三さんは、親戚だそうです。

先祖(曽祖父)は幕末の尊皇攘夷志士・近藤正慎

近藤さんの父方の曽祖父は、幕末の尊皇攘夷志士・近藤正慎(こんどう しょうしん)です。

正慎は、京都・清水寺成就院で寺侍をしていたのですが、幼い頃からの友である成就院住職の月照上人が、討幕運動に身を投じていたことから、正慎もまた、そんな月照を支援したそうで、成就院には勤皇(きんのう)の志士たちが集い、密談を交わしていたそうですが、

そんな中、江戸幕府の大老・井伊直弼が、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印するほか、次期将軍を徳川家茂に決定するなど次々に諸策を断行し、さらには、これら諸策に反対する者たちをことごとく弾圧(安政の大獄)したことから、

討幕運動をしていた月照上人は、幕府側に捕らえられそうになり、盟友の薩摩(鹿児島)の西郷隆盛を頼って九州に逃亡するのですが、薩摩藩から入藩を認められず、西郷とともに入水自殺を図り、落命。(西郷は助かります)

一方、月照上人の友人であり尊皇攘夷運動に身を投じていた正慎は、幕府側に捕らえられてしまい、京都・六角獄舎で、月照の行方について20日間にも渡る拷問を受けるも、決して白状しなかったそうで、ついには、獄中で舌を噛み切り、牢獄の壁に頭を打ち付けて自害(享年43)。後に従五位に列せられています。

本家は清水境内で茶屋を代々経営

そんな義を貫いた恩賞として、清水寺は、正慎の遺族に、永代、清水寺境内で茶屋を営むことを許したそうで、現在も、その茶屋(休憩所)「舌切茶屋」は続いているそうですが、

近藤さんは、その「舌切茶屋」の3代目当主と、祇園の芸子だった・なみさんのもと、京都の木屋町で誕生すると、

(近藤さんが物心ついた時には、お母さんは、京都・三条木屋で小料理店「女浪(めなみ)」を営んでいたそうです)

両親は未入籍(お母さんはいわゆるお父さんの愛人)だったのですが、お父さんは、すぐに近藤さんを認知し、本家の「近藤姓」を名乗らせたそうで、

近藤さんは、

親父は妾(めかけ)の子の俺に近藤を名乗らせ、正臣と名づけた。ざれごとやと思いますが、正臣を音読みすると『しょうしん』なんです

と、明かされています。

母親は妾ながら幼少期は本宅(父親の正妻の家)によく遊びに行っていた

ちなみに、近藤さんが2~3歳の頃、お父さんは他界されたそうですが、それでも、近藤さんは、跡を継いで「舌切茶屋」を経営していた本妻さんのところへよく遊びに行ったそうです。

(親戚のところに遊びに行くような感覚だったそうです)

すると、本妻さんは、のんびりと構え、幼い近藤さんを歓迎してくれると、

いつも、

あんたのひいおじいちゃんは偉い人やったんやで

と、近藤正慎の話をしてくれたのだそうです。

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本名は?芸名の由来は?

そんなことから、近藤さんは、曽祖父・近藤正慎のことを、

曽祖父の死に様は真似したくないけど、生き様は真似したいですね。口約束でも約束は破ったらあかんと思うてます

と、語っており、

近藤さんの本名は「川口正臣(かわぐち まさおみ)」ながら、この近藤正慎の子孫であることを誇りに思い、芸名の苗字を「近藤」と名付けたのだそうです。

(近藤さんは、幼い頃、お父さんが他界するまで、「近藤」を名乗っていたようですが、お母さんが再婚された後は、お母さんの再婚相手の苗字「川口」を名乗られたようです)

「近藤正臣の生い立ちは?大阪の料亭「吉兆」で板前修業をしていた!」に続く

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