日本大学芸術学部を中退後は、「俳優座養成所」「劇団文学座」の研究生を経て、1966年には、「劇団 自由劇場」(後に「オンシアター自由劇場」に改称)の旗揚げに参加すると、以降、「もっと泣いてよフラッパー」(1977年)、「上海バンスキング」(1979年)、「クスコ」(1982年)などの演出を務め、次々とヒットを生み出した、串田和美(くしだ かずよし)さん。

今回は、そんな串田和美さんの若い頃から現在までの活躍や経歴を時系列順にご紹介します。

串田和美

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串田和美は19歳で「俳優座養成所」に入所していた

日本大学芸術学部を中退した串田和美さんは、1962年4月、19歳の時、「俳優座養成所」に14期生として入所すると、そこで、いろいろな人と知り合ったことで、いろいろ作りたいと思い始め、

地下鉄日比谷線が開通真近の六本木の建設中だった地下鉄の駅で、同期で、気が合った佐藤信さん、清水紘治さんら仲間たちと、(養成所の3年間を終え)卒業したら自分たちで劇団を作ろうと話し合ったそうです。

(同期には、佐藤信さん、清水紘治さん、吉田日出子さん、樋浦勉さん、河内美子(現嵯峨美子)さん、辻萬長さん、原田芳雄さんらがいたそうです)

串田和美の20代の頃

23歳の時に「俳優座養成所」を修了し「劇団文学座」に入団するも約1年で退団していた

ただ、自分たちにはまだ力が足りないと思い、1965年3月、23歳の時に、「俳優座養成所」を修了すると、「劇団文学座」に研究生として入団したそうですが、「劇団文学座」も、(分裂騒動などがあり)約1年ほどで退団したそうです。

ちなみに、串田和美さん、清水紘治さん、吉田日出子さんの3人は、「俳優座養成所」を修了した際、六本木の「アマンド」の2階に佐藤信さんを呼び、

(自分たちの劇団を旗揚げするにはまだ機が熟していないと考え)

俺たち、「文学座」に入ることにしたよ

と、告げたそうですが、これを聞いた佐藤信はビックリして、涙を流したと言われています。

(結局、佐藤信さんは、「青芸(劇団青年芸術劇場)」に研究生として入団したそうです)

24歳の時に「自由劇場」を旗揚げしていた

それでも、串田和美さんは、1966年、24歳の時には、佐藤信さんに誘われ、地井武男さん、古川義範さん、樋浦勉さん、溝口舜亮さん、村井國夫さん、佐藤博さん、清水紘治さん、河内美子さん、田島和子さん、吉田日出子さんの俳優陣と、演出関係の観世栄夫さん、斉藤隣さんの総計14名とともに、劇団「自由劇場」を旗揚げしたそうで、

串田和美の「劇団自由劇場」
「劇団 自由劇場」創立メンバー。前列右から、串田和美さん、吉田日出子さん、2列目右が佐藤信さん、5人目が地井武男さん、後列右が斎藤憐さん、左が村井國夫さん。

串田和美さんたちは、どんなに小さくても最初から自前の劇場を持ちたかったことから、劇場にふさわしいスペースを確保しようと、東京中の不動産屋を回り、散々、歩き回った挙げ句、六本木を本拠地にすることに決めたのだそうです。

そこは、床に水がたまり、コンクリートが打ちっぱなしの約20坪ほどの地下室だったそうで、広さも高さも極端に足りないスペースだったそうですが、

建築家の斉藤義氏に設計に参加してもらい、ブロセニアムアーチに引割りカーテン、段々の可動客席、音響・照明のコントロール室、楽屋と、苦心の末に劇場が完成したそうで、

この劇場が地下室にあったことから、「アンダーグラウンド・シアター(自由劇場)」と名付けたのだそうです。

アンダーグラウンド・シアター自由劇場
1966年に撮影された「アンダーグラウンド・シアター(自由劇場)」

24歳の時に「イスメネ・地下鉄」で旗揚げ公演に参加

そして、串田和美さんは、1966年11月、24歳の時には、「イスメネ・地下鉄」(佐藤信さん作・観世栄夫さん演出)で旗揚げ公演に参加すると、以降、「ヘンリー4世」「ヒロシマのオイディプース」「皇帝ジョウンズ」と立て続けに公演に参加し、

その中でも、「あたしのビートルズ」(1967年8月~9月)、「赤目」(1967年12月~1968年1月)が高い評価を得たのでした。

串田和美は32歳の時に「自由劇場」の同期だった吉田日出子とともに「オンシアター自由劇場」に改名して再出発

そんな中、1972年、串田和美さんが30歳の時には、「自由劇場」が分裂し、事実上、解散となっているのですが、その後、串田和美さんは、1975年4月、32歳の時には、吉田日出子さんを誘って、「自由劇場」を「オンシアター自由劇場」に改名し、六本木自由劇場を本拠地に演劇活動を再開。

以降、演出、美術を手掛けるようになり、「もっと泣いてよフラッパー」(1977年)、「上海バンスキング」(1979年)、「クスコ」(1982年)などの演出を務め、ヒット作を次々と生み出したのでした。

ちなみに、1972年、創立メンバーと別れ、1人になった串田和美さんは、まず、舞台裏からステージ上の様子がわかるように、ひとりで壁に穴を開けるなど、次の芝居をするための準備をしていたそうで、そこに、吉田日出子さんがひょっこりと現れたそうですが、

吉田日出子さんは、

自分はいっそ芝居をやめようとしていたけど、サム(若い頃の串田の愛称)はたったひとりで劇場でセメントを固めながら、次の芝居をするための準備をしていた。

いつできるかもわからないのに。本当にひとりでやろうとしていた。ああ、この人こんなに芝居が好きなんだなあって思ったの。こんな人が一緒にやろうっていってくれるんだから、いらないっていわれるまでここにいようって思った

と、語っています。

(「オンシアター自由劇場」には、その後、笹野高史さん、柄本明さん、イッセー尾形さん、下條アトムさんらが加入するほか、途中で研究生も取るようになると、1期生には、岩松了さん、高田純次さん、ベンガルさん、綾田俊樹さん、2期生には、大森博史さん、真那胡敬二さん、4期生には小日向文世さん、余貴美子さんら、大勢加入しています)

串田和美は42歳の時に東急Bunkamuraの「シアターコクーン」の初代芸術監督に就任

また、串田和美さんは、1985年、42歳の時には、東急Bunkamuraの「シアターコクーン」の初代芸術監督に就任すると、劇場設計に初期段階から携わり、1989年には、劇場をオープンさせているのですが、

同時に、「オンシアター自由劇場」もフランチャイズ契約を結び、以降、劇場レパートリー制の導入、毎年異なる演出家による「夏の夜の夢」の連続上演、中村勘三郎さんと組んだ「コクーン歌舞伎」など、精力的に劇場の運営を行ったのでした。

串田和美は53歳の時に「オンシアター自由劇場」を解散していた

ただ、串田和美さんは、1996年2月、53歳の時には、シアターコクーン芸術監督任期満了と同時に30年続けた「オンシアター自由劇場」を解散しています。

(六本木のホームグランドである地下劇場も閉じたそうです)

ちなみに、串田和美さんは、

背景にある企業の事情というものと無関係ではいられなくなった。もちろんそのことはある程度覚悟していたけど、バブル経済が終わり、理想的な文化事業がだんだんできなくなった。

それでも他の大企業が劇場や美術館を閉めていく中で、Bunkamuraはたとえ一企業のものでも劇場を創ったからには、社会的責任がある。会社の都合だけで辞めるわけにはいかないと頑張ったんです。

でももちろん赤字を出し続けるわけにはいかないので、運営がどんどん商業主義的にならざるを得なくなった。僕はその頃に芸術監督を辞めて、30年活動した自分の劇団も解散しました。

新しい演劇活動の仕方を模索しなければと思って。同時に巨大都市東京での演劇活動に限界を感じだし、漠然とですが地方都市での活動というものに可能性の予感を感じるようになったんです。

と、語っています。

串田和美は60歳の時に「まつもと市民芸術館」の館長 兼 芸術監督に就任

そんな中、串田和美さんは、2003年、60歳の時には、長野県松本市から、新しくできる劇場の館長兼芸術監督の仕事のオファーが来たそうで、このオファーを引き受けると、

「まつもと市民芸術館」館長 兼 芸術監督に就任し、2023年3月31日、80歳まで、20年も務め上げています。

串田和美は68歳の時にNHK朝の連続テレビ小説「おひさま」で井上真央と共演していた

そんな串田和美さんは、2011年、68歳の時には、前期のNHK朝の連続テレビ小説「おひさま」では、ヒロインの陽子(井上真央さん)が嫁いだ、そば屋の店主で、義理の父親、丸山道夫役を演じているのですが、

「おひさま」に出演する串田和美
「おひさま」より。(左から)串田和美さん、高良健吾さん、井上真央さん、樋口可南子さん。

串田さん演じる道夫は、そば一筋の職人でありながら、妻の徳子(樋口可南子さん)が好きでたまらないという役柄で、温かみのある演技が印象的で、串田和美さんの人柄にぴったりな役でした。

ちなみに、ストーリーは、道夫の息子の和成(高良健吾さん)が、戦争から帰還した後の、丸山家の新しい生活を描いた作品で、ヒロインの陽子が、おひさまのように人々を包んでいく様子が描かれています。

串田和美は73歳の時にルーマニアの「第22回 シビウ国際演劇祭」で「ウォーク・オブ・フェイム」賞を受賞

また、串田和美さんは、2015年、73歳の時には、ルーマニア シビウ市で開催された「第22回 シビウ国際演劇祭」で、舞台芸術に貢献した人に贈られる、「ウォーク・オブ・フェイム」賞を受賞し、

この演劇祭では、串田和美さんの代表作「スカパン」と、串田和美さんがルーマニア人のキャストとスタッフで制作した「幽霊はここにいる」が連続上演されています。

(この賞を受賞した人は、ハリウッドのように、市内の歩道に星形のネームプレートが埋め込まれるそうです)

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串田和美の現在は?

その後、串田和美さんは、2023年3月31日、80歳で、「まつもと市民芸術館」館長 兼 芸術監督を終えた後は、フリーとなって、六本木の元ホームグラウンド「アンダーグラウンド・シアター自由劇場」に戻り、

2023年5月13日~21日には、独り芝居「月夜のファウスト」(作・演出・出演、串田和美さん)、前芝居「注文の多い地下室」(構成・演出、串田和美さん、出演・真那胡敬二さん、串田十二夜(息子)さん)を上演するなど、再び原点に立ち戻り、精力的に活動しています。

(1966年、同世代の仲間と結成した劇団「自由劇場」(1975年「オンシアター自由劇場」と改名)が運営する地下劇場は、現在は、音楽実験室・新世界としてライブハウス、入替制で23時から5時までは音楽バーになっているそうです)

「串田和美の現在の妻は?前妻は?子供は息子2人とも俳優!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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