「半沢直樹」ほか数々の話題のドラマに出演し、個性的な風貌と真に迫る演技で観るものを魅了する、柄本明(えもと あきら)さん。今回は、そんな柄本さんの生い立ちからご紹介します。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?

柄本さんは、1948年11月3日生まれ、
東京都中央区銀座(旧・木挽町)のご出身、

身長175センチ、

血液型はB型、

学歴は、
杉並区立八城小学校
⇒杉並区立九瀬中学校
⇒東京都立王子工業高等学校機械科卒業

趣味は、映画鑑賞、

特技は、野球、

ちなみに、「柄本明」は本名で、愛称は「えもっちゃん」「エモアキ」だそうです。

映画好きの両親の影響を受けて育つ

柄本さんは、印刷屋を営むお父さんとお母さんのもと、東京都中央区にある聖路加国際病院で誕生するのですが、両親は映画とお芝居が大好きで、

しかも、新派は花柳章太郎ではなく大矢市次郎、喜劇はチャップリンではなくキートンと、かなりコアな映画&芝居ファンで、家にはすべての映画雑誌があり、映画やお芝居の話しかしないような家庭だったそうで、柄本さんは、そんな両親に大きな影響を受けて育ちます。

少年時代は映画館へ入り浸っていた

そんな柄本さんは、歌舞伎座(銀座)の裏にある家で、幼少期を過ごしたそうですが、やがて家業が傾き、生活が苦しくなると、一家は東京・杉並区にある(西武新宿線の)下井草という所に移り住んだそうです。

すると、野方には東宝映画と大映映画、新井薬師には薬師東映と東宝の三番館、沼袋には沼袋映画と、あちこちに映画館があったそうで、

柄本さんは、小学校1年生の頃くらいから、1人で西武新宿線に乗って映画館に入り浸っては、1日に3本立てを5回も観るほどの映画狂だったそうで、

(映画「笛吹童子」の初代・中村錦之助さんに憧れていたそうです)

柄本さんは、当時を振り返り、

(映画が好きになったのは)家庭環境ですね。親父とお袋が映画や芝居の話しかしないような家でね。終戦間近のことですけど、ものすごい貧乏だったから、日本人はみんなアメリカ映画を観て生活の豊かさに圧倒されて打ちのめされた。いくら貧乏でも、芸術がどうこうって話をしていると浮世を忘れられるじゃないですか。

と、語っておられます。

高校卒業後は商社に就職していた

その後、成長した柄本さんは、高校卒業後、精密機械の商社に就職するのですが、20歳の冬(年の暮れ)、知人に誘われて、鈴木忠志さん主宰の早稲田小劇場の芝居「どん底における民俗学的分析」を観に行くと、

笑えてしょうがない

くだらないなぁ(褒め言葉)

と、衝撃を受け、

このまま会社員なのか?

と、考えるようになったそうで、

年が明けて、新年最初の出勤日、上司の挨拶を聞いているちょうどその時、会社を辞めて役者として生きていく決意をされたのでした。

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役者になったのは「青春の誤解」?

ただ、後に、柄本さんは、

ようするに、若いってことはバカだから、カッコよく見えたんですよ。アングラとか、映画とか、そんな場所が。

ただ、お客として映画や芝居を観るのと、自分でやるのとじゃ、まあ‥‥ぜんぜん別ものだったですけど。

あの頃はちょうど学生運動が起きて社会がガチャガチャしている時代で、芝居の世界ではアングラ演劇というものが生まれた。

そこから状況劇場なんかの劇団ができて、要するにカッコよく見えたんだよ。子どもの頃って何もわかっちゃいないのに、何かをやりたいとかこれになりたいって言うでしょ。

俺も最初はそんな感じで劇団に入って、続けていたらおかげさまで運良く仕事になった。やっぱりどこか芝居をやるってことが、うまく水に合ったんだろうね。

だけど、人間が人間を観るって本当に恐ろしいことだよ。ましてや、あんなところ(舞台)でやっているわけだから。

と、語っており、役者になったのは「青春の誤解」だったと明かされています。

「柄本明は昔ベンガルや綾田俊樹とナンセンスな笑いを追求していた!」に続く

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