歌舞伎から映画俳優に転身し、一躍人気スターとなった時代劇俳優の、萬屋錦之介(よろずや きんのすけ)さん。今回は、そんな萬屋さんのご兄弟についてご紹介します。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?

萬屋さんは、1932年11月20日生まれ、
東京府東京市麻布区(現・東京都港区六本木7丁目)のご出身、

身長162センチ、

学歴は、
暁星小学校
⇒松沢国民学校(疎開)
⇒旧制暁星中学校中退

ちなみに、本名は「小川 錦一(おがわ きんいち)」で、旧芸名は「小川矜一郎(おがわ きんいちろう)」「中村錦之助(なかむら きんのすけ)」、愛称は錦ちゃん(きんちゃん)です。


お宮参りでお母さんに抱かれる赤ちゃんの頃の萬屋さん。

長兄は二代目中村歌昇

萬屋さんは、10人兄弟(5男5女)の4男として誕生しているのですが、歌舞伎役者(お父さんが三代目中村時蔵さん)の家だったため、男兄弟は全員、有名人です。

まず、長兄は、二代目中村歌昇(なかむら かしょう)さんで、三代目中村種太郎として、1936年に初舞台を踏まれると、その後、元禄歌舞伎の復活上演などを精力的に行われていたのですが、幼少期から体が弱く、時期は不明ですが、持病の悪化で歌舞伎役者を引退。


二代目中村歌昇さん。

その後は、本名の小川貴智雄(おがわ きちお)として、シナリオ作家(脚本家)や監督に転身。また、当時まだ草創期だったテレビ制作に携わっておられたのですが、1973年、48歳の若さで他界されています。

次兄は四代目中村時蔵

次兄は、四代目中村時蔵さんで、二代目中村梅枝として、1936年に初舞台を踏まれると、お兄さんの中村歌昇さんが病のため、早くに歌舞伎役者を引退されたため、1960年、お父さんの死後、お父さんの後継者として、四代目中村時蔵を襲名。


四代目中村時蔵さん。

清楚な芸を身につけた美貌の女形として活躍し、叔父の十七代目中村勘三郎さんが専属の相方に起用するほど、将来を有望視されていたのですが、人気が急上昇するとともに、舞台出演が急増すると、

休みがない公演が続いたことで、疲労がたまり、睡眠薬への依存が増し、1962年、34歳という若さで睡眠薬事故のため急死されたそうです。

三兄は初代中村獅童

三兄は、初代中村獅童(なかむら しどう)さんで、他の兄弟とともに歌舞伎役者として活動されていたのですが、先輩役者から弟の芸をなじられたことに怒り、被っていたかつらを投げつけ、歌舞伎役者をやめてしまったそうで、


初代中村獅童さん。

その後、銀行員を経て、「東映」のプロデューサーとして、弟の萬屋さんと中村嘉葎雄さんをバックアップされたそうです。(2008年、79歳で胃ガンのため他界されています)

弟は俳優の中村嘉葎雄

そして、唯一の弟は、中村嘉葎雄(なかむら かつお)さんで、中村賀津雄として、1943年に初舞台を踏まれると、高校2年生の時には、すでに新進スターとして売り出されていた兄の萬屋さんに続いて映画界に入り、

1955年、松竹映画「振袖剣法」で映画デビューされると、時代劇だけではなく、木下惠介監督作品の「太陽とバラ」(1956)「喜びも悲しみも幾歳月」(1957)、家城巳代治監督の独立プロ作品「異母兄弟」(1957)など現代劇にも出演し、派手さはないものの、ナイーブな演技が注目されます。


中村嘉葎雄さん。

そして、1958年には「東映」に移籍し、京都撮影所でお兄さんの萬屋さんと「殿さま弥次喜多」シリーズで共演するほか、美空ひばりさんとの共演を通して、スターとしての華やかさを身につけれていかれたそうです。

ただ、どうしても兄と比較されるため、東京撮影所へ移られると、「サラリーマン一心太助」(1962)などの現代劇に活路を見いだし、以降、テレビドラマや舞台にも積極的に出演されるようになると、近年では、NHK朝の連続テレビ小説「ふたりっ子」(1996)にも出演。

また、映画「いま、会いにゆきます」(2004)、「特別企画 終戦60周年記念 実録・小野田少尉 遅すぎた帰還」(2005)、「JNN50周年記念 歴史大河スペクタクル唐招提寺1200年の謎〜天平を駆けぬけた男と女たち」(2009)では、甥の二代目中村獅童さんとも共演されています。

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家系図

そのほか、二代松本白鸚さん、二代中村吉右衛門さん、十一代市川海老蔵さん、十代松本幸四郎さん、松たか子さん、富司純子さん、七代尾上菊五郎さん、寺島しのぶさん、初代中村隼人さん、五代尾上菊之助さんらも縁戚にあたります。

最後に、家系図を御覧ください。

「萬屋錦之介の両親は?幼少期から叔父・初代中村吉右衛門に目をかけられていた!」に続く


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