数多くの任侠映画で、鶴田浩二さんや高倉健さんの相手役を務め、憂いを含んだ美人女優として人気を博した、富司純子(ふじ すみこ)さん。今回は、そんな富司さんの生い立ちから映画デビューまでをご紹介します。
年齢は?出身は?身長は?本名は?
富司さんは、1945年12月1日生まれ、
大阪府大阪市東成区のご出身(和歌山県御坊市生まれ)、
血液型はO型、
本名は「寺島 純子(てらしま じゅんこ)」(旧姓:俊藤(しゅんどう)で、旧芸名は「藤 純子(ふじ じゅんこ)」、
学歴は、
大阪市立本庄中学校
⇒京都女子高等学校
ちなみに、富司さんは着物が好きで、1000着以上も所有されているそうです。
父親は東映プロデューサーの俊藤浩滋
富司さんのお父さんは、「東映」のプロデューサーで、「仁義なき戦い」など、数多くの任侠映画を企画した俊藤浩滋さんです。
俊藤浩滋さん。
ただ、実は、俊藤さんは、3人の子ども達(次女が富司さん)と妻を捨てて、京都で人気NO.1の芸者・おそめさんという方と交際を始め、一緒に暮らし始めたそうで、
(おそめさんのお母さんは、「あれは極道もんや、まともな仕事をしている人間と違う」と大反対したそうです)
その後、おそめさんが、富司さん達の金銭的な面倒をみたうえ、俊藤さんが映画界に入るきっかけまで作られたのだそうです。
(俊藤さんとおそめさんは、籍は入れなかったそうです)
赤ちゃんの頃から美人だった
さて、富司さんは、終戦から3ヶ月半過ぎた頃、疎開先の和歌山・御坊市で、1男2女の末っ子として誕生すると、お父さん(前述の俊藤さん)が家庭を顧みない人だったことから、ずっとお母さんが苦労する姿を見ながら育ったそうで、
そのため、お母さんやお姉さんとは、今も頻繁に連絡を取り合うほど仲が良いそうです。
また、富司さんは、赤ちゃんの頃から、目鼻立ちが整っていたそうで、
3つ年上の姉・允子(みつこ)さんは、
人形のようなかわいらしさで母も連れて歩くのが自慢でした。私が真っ黒に日焼けして男の子たちとメンコで遊ぶ一方で、妹が日本舞踊を習い始めたのは、7歳ごろでした。
5歳年上の兄・正弘さんも、
周囲からきれいな顔と言われ、学芸会でも主役していたね。おふくろも芸の道に進ませたかったんだと思う。学校では絵が得意で、運動会で足が速かった記憶があるね。
と、兄姉も認める美貌の持ち主だったそうです。
(ただ、ご本人は、「(容姿は)全然普通よ。子供のときは痩せてたから走れたんじゃない?」と、兄姉の証言を否定されています)
宝塚歌劇団に憧れるも父親の反対で断念
その後、富司さんが5歳の時、一家は大阪に転居されているのですが、富司さんは、中学生になると、「宝塚歌劇団」のファンになり、何度も劇場に足を運ぶようになったそうで、
中学校を卒業したら、「宝塚音楽学校」を受けようと、「宝塚コドモアテネ」にも通うようになったそうです。(「宝塚コドモアテネ」には、「宝塚音楽学校」の受験希望者の多くが学んでいたそうです。)
しかし、お父さんが、
宝塚は遠いし、夜道は危ない。もし何かあったらあかん。それにせめて高校ぐらいは出とかなあかん。
と、反対したため、富司さんは、お父さんの言葉に従い、「宝塚音楽学校」の受験を断念して、高校に進学。
それでも、演技の勉強を兼ねて、大阪の芸能プロダクションに所属し、高校2年生の時には、歌謡番組「ハイハイ、マヒナです」のカバーガールとして、お姉さんの允子さんとともに出演されるなど、芸能活動を始められたのでした。
マキノ雅弘監督にスカウトされて「八州遊侠伝 男の盃」で映画デビュー
そして、富司さんが、高校2年生の時、一緒に仕事をした俳優の名和宏さんの勧めで、「東映京都撮影所」(太秦)へ「松竹」のカメラテストを受けに行くと、マキノ雅弘監督に、
どうしたんや。女優になりたいんか?
と、尋ねられたそうで、
当時のマキノ雅弘監督と富司さん。
富司さんが、
はい。そうです。
と、答えると、
やるんなら、うちでやったらどうや。女優にさしたる。
と、スカウトされたそうで、
同年、芸名「藤純子(ふじ じゅんこ)」として、映画「八州遊侠伝 男の盃」で、千葉真一さんの恋人役で女優デビューを果たされたのでした。
(「東映京都撮影所」は、富司さんのお父さんである俊藤さんの勤務先でもあったため、マキノ監督は、俊藤さんが自分の家に帰らずに、富司さんら子どもたちが苦労していることを、ある程度知っていたと言われており、富司さんが自立できるように手を差し伸べられたのかもしれません)
「富司純子の若い頃は任侠映画のヒロインほか緋牡丹博徒でブレイク!」に続く
「八州遊侠伝 男の盃」より。富司さんと千葉真一さん。