日本人なら、世代を問わず、その名を知らない者はいないと思われる、往年の映画スター、高倉健(たかくら けん)さん。実直で寡黙なイメージのある高倉さんですが、実は、若い頃は、気性が荒く、ケンカに明け暮れる日々を送っていたといいます。

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年齢は?出身は?身長は?

高倉さんは、1931年2月16日生まれ、
福岡県中間市のご出身、

身長180センチ、
体重71キロ、

血液型はB型、

学歴は、
旧制東筑中学校
⇒福岡県立東筑高等学校全日制課程商業科
⇒明治大学商学部商学科卒業

趣味は、
旅、乗馬、ライフル射撃、車、刀剣の収集、夜ふかし、コーヒー、

ちなみに、大学時代は酒癖が悪く、酒を飲んではケンカに明け暮れていたそうですが、ボクシング部の友達がお酒を飲んで不祥事を起こしたことで、「不祥事を起こすから、もう一切酒は飲まない」と決意。以降、飲酒をやめ、コーヒーを飲むようになったそうです。


お父さんと高倉さん。お父さんにとても可愛がられたそうです。

本名は?芸名「高倉健」はいやいや?

高倉さんの本名は、「小田 剛一(おだ ごういち)」なのですが、芸名の「高倉健」は、「東映」に入社後1ヶ月半で主演デビューが決まった際、高倉さんをスカウトした「東映東京撮影所」の所長で映画プロデューサーのマキノ光雄さんの知人から名付けられたそうです。

ただ、高倉さん自身は、脚本に書かれてあった主人公の名前(役名)「忍勇作」が気に入ったそうで、これを芸名にしたいと希望したそうですが、却下されてしまい、いやいや「高倉健」でのデビューとなったのだそうです。

炭鉱の町「川筋」で生まれ育つ

さて、高倉さんは、宝珠山(ほうしゅやま)炭鉱で、炭鉱労働者を束ねる、旧海軍軍人のお父さんと、教員だったお母さんのもと、裕福な家庭に生まれると、

筑豊(ちくほう)の「川筋」と呼ばれる、荒くれ者の男たちのケンカが日常茶飯事ながらも、義理人情を重んじる気質の人たちが多く住む地域で育ちます。

高倉さんによると、「川筋」は、とても乱暴な町だったため、毎年、お盆の盆踊りがあった後は、必ず殺人があり、高倉さんが、朝、学校に行く時、むしろがかけられている死体を何回も見たことがあったそうです。

ちなみに、旧制東筑中学以来の親友で、弁護士の敷田稔さんによると、高倉さんも、典型的な「川筋」の人間だったそうで、

裏表がなくひたむきで、こいつには絶対だまされないと子供の頃から信じられましたよ。一方でひどく人見知りするタイプで、人前で演技する俳優になるなど、まったく考えられませんでしたね。

と、少年時代の高倉さんについて明かされています。

中学・高校時代は英語とボクシングに熱中

そんな高倉さんは、幼い頃に「肺結核」を患い、小学2年生の時には、学校を1年休んで自宅で療養するほど、虚弱な子どもだったそうですが、中学時代は、病弱を克服しようと、陸上部で活動するほか、合気道にも打ち込んだそうです。

そして、終戦後(中学生の時)は、アメリカ文化が一気に日本に入ってきたことで、アメリカ文化に触れると、

これからは英語の時代だ

と、進駐軍の将校の家に押しかけては、英語を学ぶほか、ボクシングにも熱中し、高校進学後は、ESS部(英会話部)とボクシング部を自ら立ち上げるなど、熱心に活動。

(ボクシングでは、フェザー級で6勝1敗という成績を収められています)

また、ボクシングを通じて、小倉在住のアメリカ人の少年と知り合い、港を出入りする外国船に欧米のイメージを重ね合わせるうち、将来、貿易商になることを夢見るようになったのだそうです。

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酒とケンカに明け暮れる無軌道な日々

そして、1949年、高校を卒業した高倉さんは、お父さんのコネで明治大学商学部商学科へ進学し、お父さんの言いつけで相撲部に入るのですが、

(高倉さんのお父さんは、若い時に、相撲をされていたそうで、「亀ケ嶋」という四股名(しこな)を持つほどの腕前だったそうです)

1年で退部すると、ほどなくして授業にもほとんど出なくなり、渋谷に出かけては、盛り場で酒とケンカに明け暮れる日々を送ったのだそうです。

ちなみに、渋谷周辺では、「明大の小田(高倉さんの本名)」と呼ばれるほど、高倉さんはケンカが強かったそうですが、この時期、高倉さんは、「銀座警察」(後の指定暴力団「住吉会」)の幹部たちとも交友があったそうで、特に、同じ明治大学の1年後輩で、後に「住吉会」の理事長にまで上り詰めた直井二郎氏と親しかったのだそうです。

「高倉健のデビュー当時は厚待遇もパッとせず?美空ひばりも不満を抱いていた!」に続く

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