貧乏生活の中、同じ劇団「石井均一座」に所属していた、舞台女優のミドリさんに一目惚れし、その後、土下座してプロポーズし、結婚に至ったという、財津一郎(ざいつ いちろう)さんですが、結婚後もなかなか仕事にありつけなかったことから、ミドリさんには、精神面に加え、金銭面でも支えてもらったといいます。

「財津一郎の妻は「石井均一座」の舞台女優!馴れ初めは?」からの続き

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大阪では田んぼの農機具小屋に住んでいたことも

結婚後も長らく仕事がない時期が続いたという財津さんは、1962年、吉本興業に入るため、大阪に活動の拠点を移した際には、ちゃんとした家を借りるお金がなく、なんと、田んぼの中にある4畳半の農機具小屋を借りて住んでいたこともあったそうで、

夏になると、大量に蚊が飛んでくることから、長男が2歳の時には、顔中刺されて腫れ上がったことがあったほか、長男が熱を出しても、病院に連れて行くことができなかったそうです。

お寺の納骨堂の横の納屋を無料で貸してもらって暮らしていた

しかも、その小屋でさえも、家賃が払えなくなり、追い出されると、

見かねた知り合いのお坊さんが、

そんなに貧しいんなら、うちに来なはれ

と、言って、お寺の納骨堂の横にある納屋を無料で貸してくれたそうで、

そこで、家族3人、身を寄せ合うように暮らしたのだそうです。

(ちなみに、その部屋は、冬は壁の隙間から寒風が吹き込み、畳は腐って反り返り、朝、目が覚めると、タケノコが畳を突き破って伸びていたこともあったのだそうです(夕食としてありがたく頂いたそうです))

妻が嫁入り道具と着物を売ってお金を工面してくれていた

そんな極貧生活の中、ミドリさんは、愚痴一つこぼしたことはなかったそうで、やがては、嫁入り道具の帯と着物を全部売り払い、

これを生活費に充ててください

と、言って、大金を差し出してくれたことがあったそうですが、

財津さんは、その気持ちがありがたく、涙が出そうになったそうで、それと同時に、

こんな惨めな思いを二度とさせてなるものか

と、思ったのだそうです。

(財津さんは、ミドリさんが、極貧生活に耐えかね、子供を連れて出ていってしまうのではと、いつも不安だったそうです)

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極貧生活での心の叫び(やめてチョーダイ)でブレイクし裕福な暮らしができるようになっていた

また、ミドリさんは、その後も、移動劇団の一員として、地方巡業をし、苦しい家計を支え続けてくれたそうで、

財津さんは、

ミドリさんに、なんとか楽をさせたい。

と、死物狂いで稽古に打ち込んだそうですが、

この極貧生活から、思わず、財津さんが舞台で発した、

やめてチョーダイ(心の叫び)

が、観客に大ウケ。

これを契機に、財津さんは、同年末から出演した、時代劇風コメディ番組「てなもんや三度笠」でも、

非っ常にキビシ~ッ!

~してチョーダイ!

などのギャグがウケて、一躍、全国的にブレイクし、ついに、裕福な暮らしを手に入れることができたのでした。

「財津一郎は「脳出血」で倒れるも大手術により完治していた!」に続く

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