鶴田浩二の生い立ちは?若い頃は青春三羽烏!岸恵子と破局で自殺未遂?


1948年「遊侠の群れ」で本格的に映画デビューされると、翌年の1949年には、映画「フランチェスカの鐘」で主演に抜擢され、たちまちブレイクされた、鶴田浩二(つるた こうじ)さん。その甘い美貌と退廃的な雰囲気で、雑誌の人気投票やブロマイドの売上が1位になるなど、絶大な人気を博しました。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?

鶴田さんは、1924年12月6日生まれ、
静岡県浜松市出身のご出身(兵庫県西宮市生まれ)、

身長173センチ、
(※鶴田さんは身長のサバを読んでいたことがあり、複数の記録があるのですが、当時の同身長の人と比べると、173センチ程度だと思われます。)

学歴は、
此花商業学校高校
⇒関西大学専門部商科中退?
(大学在学中、学徒出陣令のため徴兵されています)

ちなみに、本名は、小野榮一(おの えいいち)で、
芸名の「鶴田浩二」は、師匠の「高田浩吉」さんに由来しているそうです。

孤独な幼少期

鶴田さんのお母さんは、お父さんの家族から結婚を反対されたため、お父さんと籍を入れぬまま、鶴田さんを兵庫県西宮市で出産すると、幼い鶴田さんと目の不自由な母親(鶴田さんのおばあちゃん)を連れて、静岡県浜松市に移り住んだそうですが、そこで、別の男性と結婚すると、家を出ていったそうで、

鶴田さんは、目の不自由なおばあちゃんと狭い長屋で二人暮らしをされていたそうです。(洗面器で米を炊くほど、生活は厳しかったそうです)

そして、ほどなくして、おばあちゃんが亡くなると、鶴田さんは一人暮らしとなるのですが、お母さんが恋しくなり、お母さんが働く遊郭へと一人で出向くも、仕事中のお母さんは相手にしてくれず、また、義理のお父さんも博打好きで、鶴田さんを顧みてはくれなかったそうで、このような孤独な幼少期の思い出から、鶴田さんは、夕日が嫌いだったそうです。

佐田啓二、高橋貞とともに「青春三羽烏」としてブレイク

そんな鶴田さんですが、14歳の時、俳優に憧れ、当時時代劇スターだった高田浩吉さんの劇団に入団。

具体的にどのような演劇活動をされていたのかは不明ですが、その後、大学入学の年に、学徒出陣令により徴兵されると、「大井海軍航空隊」の整備科に予備士官として所属し、出撃する特攻機を見送り続けて終戦を迎えたそうです。

そして、終戦後は、高田さんの付き人として働き始め、1948年、高田さんの口添えで、松竹京都撮影所に入社されると、

最初は大部屋からのスタートだったのですが、いくつかの映画に端役で出演した後、すぐに頭角を現し、1948年には、長谷川一夫さん主演の「遊侠の群れ」で本格的な映画デビュー。

翌年の1949年には、「フランチェスカの鐘」で、早くも主演に抜擢されると、映画は大ヒットを記録し、鶴田さんも、その甘い美貌と、どこか虚無感を漂わせた退廃的なルックスで、一躍ブレイク。

以降、鶴田さんは、順調に映画出演を重ね、佐田啓二さん、高橋貞二さんとともに、松竹「青春三羽烏」と呼ばれると、芸能雑誌「平凡」の人気投票で、2位の池部良さん、3位の長谷川一夫さんを大きく引き離しての第1を獲得。

また、ブロマイドは爆発的に売れて、瞬く間に、トップスターの座に上り詰めたのでした。

(ブロマイドとはスターの肖像写真のことで、当時、ブロマイドの売上は、芸能人の人気のバロメーターとなっていました)


「平凡」(1951年11月号)より。淡島千景さんと鶴田さん。

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岸恵子と破局も・・・戦後の日本を代表するトップスターへ

これに気を良くした鶴田さんは、1952年には、「新生プロ」を設立し、

(※「新生プロ」とは、戦後、俳優が独立したプロダクション第一号で、SKD(松竹歌劇団)のトップスターだった水の江瀧子さんらが所属されました。)

翌年の1953年には、戦後初の海外ロケ映画「ハワイの夜」に自ら主演されると、恋人と噂された岸恵子さんとの共演ということでも話題を呼び、映画は大ヒット。


ハワイの夜

映画のストーリーさながら「戦後最大のロマンス」と呼ばれるほど、岸さんとの恋は熱烈なものだったのですが・・・

岸さんが所属していた松竹がそれを許さず、別れさせられると、鶴田さんは自殺未遂を起こすまでの大きなショックを受けられたのでした。

ただ、プライベートでの傷心とは裏腹に、同年、レコードデビューされると、ファーストシングル「男の夜曲」がヒット。

歌手としても成功を収めた鶴田さんは、戦後の日本を代表するスターとなられたのでした。

「鶴田浩二は山口組から襲撃されていた!マネージャーは自殺?真相は?」に続く

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