1936年、映画「Zメン青春突撃隊」で俳優デビューすると、たちまち人気を博し、上原謙さん、佐分利信さんとともに「松竹三羽烏」と称され、以降、松竹の二枚目スターとして活躍した、佐野周二(さの しゅうじ)さん。
今回は、そんな佐野周二さんの簡単なプロフィールと、若い頃から死去までをご紹介します。
佐野周二の年齢は?出身は?身長は?本名は?
佐野周二さんは、1912年11月21日生まれ、
東京府東京市神田区東紺屋町(現在の東京都千代田区神田東紺屋町)生まれ、
東京都世田谷区の出身、
身長175センチ、
本名は、関口正三郎(せきぐち しょうざぶろう)
学歴は、
立教大学経済学部卒業です。
ちなみに、元国鉄職員の佐野周二さんは同姓同名の別人です。
佐野周二は立教大学在学中は水泳選手として活躍していた
佐野周二さんは、鳶職(とびしょく)のお父さんのもと誕生すると、立教大学在学中は、水泳の選手として活躍し、オリンピック選手を目指したそうですが、
残念ながら、オリンピック候補選手になることはできず、オリンピックに出場することはできなかったそうです。
佐野周二は若い頃、松竹の新人俳優募集に応募し1000人の中から1人合格していた
そんな佐野周二さんは、1933年、立教大学経済学部を卒業後、1934年には、近衛第1連隊に入営し、乙種幹部候補生になるのですが、翌年の1935年には、陸軍歩兵伍長で除隊し、同年、義兄が経営する神戸の貿易会社「アサヒ商会」に入社。
しかし、松竹が、「家族会議」を映画化するにあたり、新人俳優を募集していたのを、友人に勧められて応募すると、1000人の応募者の中から唯一の合格者となり、1936年に松竹に入社しています。
ちなみに、佐野周二さんが選ばれた理由は、近衛第1連隊から帰ったばかりで、言葉遣いも丁寧で礼儀正しかったからだそうです。
佐野周二が若い頃は上原謙と佐分利信とで「松竹三羽烏」と呼ばれるスターだった
そんな佐野周二さんは、この年(1936年)「大船撮影所1期生」として、映画「Zメン青春突撃隊」で、俳優デビューすると、たちまち人気を博し、スターの仲間入り。
そして、同年には、同じく、松竹大船撮影所の新人俳優であった、上原謙さん、佐分利信さんと、映画「新道」で共演すると、1937年には、再び3人で共演した「婚約三羽烏」が大ヒットし、
佐野周二さん、上原謙さん、佐分利信さんは、「松竹三羽烏」と称され、スターの地位を確固たるものにしたのでした。
「婚約三羽烏」より。(左から)上原謙さん、佐野周二さん、佐分利信さん。
(佐野周二さんは、立教大学の先輩だった上原謙さんとともに、幹部スター候補生として売り出され、1937年には、早くも準幹部に昇格し、1938年には、幹部に昇格しています)
佐野周二は人気絶頂期に3度も戦争に応召されていた
こうして、佐野周二さんは、名実ともに松竹を背負って立つ存在となったのですが、人気絶頂だった1938年7月には、召集令状が来たため、第15航空通信連隊に入隊すると、1941年まで、陸軍軍曹の暗号掛下士官として、中国大陸各地での飛行場で航空通信の職務に従事したそうです。
また、2度目の応召では、東部第6部隊に入隊し、曹長に進級。1944年には召集解除となったそうですが、1945年3月には、3度目の応召があり、(第13航空通信連隊の強化のため)営外上級曹長として、第13航空通信連隊第2中隊に入隊したそうです。
(佐野周二さんは、暗号のエキスパートだったため、復員してはまた召集されを3度も繰り返したそうで、テレビのインタビューで、「どうして、自分ばかり、度々招集されるのかと思った」と語っていたことがあったそうです)
佐野周二は終戦後も人気は衰えず、二枚目スターとして活躍していた
それでも、佐野周二さんは、そんな中、俳優としての活動は続け、1941年には「蘇州の夜」、1942年には「父ありき」「或る女」「愛国の花」、1944年には「野戦軍楽隊」「陸軍」などに出演すると、終戦後も人気は衰えず、
1953年にはフリーとなり、五所平之助監督作品「大阪の宿」、成瀬巳喜男作品「驟雨(しゅうう)」などに出演し、重厚な演技で、演技派俳優としての地位を確立したのでした。
「驟雨」より。原節子さんと佐野周二さん
佐野周二の死因は?
ちなみに、1963年には、息子の関口宏さんも俳優デビューすると、その影響からか、その後、佐野周二さんは、テレビドラマにも活躍の場を広げ、主に優しいお父さんの役を多く演じていたのですが、
1978年12月21日、急性心不全のため66歳で他界されています。
「佐野周二の息子は関口宏!妻は?娘は早くに他界?孫は関口知宏!」に続く
息子の関口宏さん(左)と佐野周二さん(右)