1964年、「無言な毒薬」で初舞台を踏むと、以降、甘いマスクと低音の美声で、二枚目俳優として人気を博し、その後、冷徹な悪役やコミカルな役なども幅広く演じ、映画「エロス+虐殺」、テレビドラマ「ムー一族」「毛利元就」などに出演するほか、劇場版アニメ「あしたのジョー」の力石徹の声も演じた、細川俊之(ほそかわ としゆき)さん。
今回は、そんな細川俊之さんの、若い頃からの経歴、最初の妻・小川眞由美さんとの馴れ初め、娘、再婚相手、闘病、死因についてまとめてみました。
細川俊之のプロフィール
細川俊之さんは、1940年12月15日、
福岡県小倉市(現在の北九州市)生まれ、
(山口県下関市育ち)
身長175センチ、
体重67キロ、
血液型はB型、
学歴は、
学習院大学政経学部、
趣味は、
スキューバダイビング、
だそうです。
細川俊之は24歳の時に「無言な毒薬」で舞台デビューすると、以降、クールな二枚目俳優として活躍
細川俊之さんは、学習院大学中退後、「俳優座」の養成所、第13期生となると、卒業後の1963年には、劇団「文学座」の研究生となり、翌年の1964年には、「無言な毒薬」で舞台デビュー。
以降は、クールな二枚目俳優として頭角を現し、
- 1964年「欲望という名の電車」で、ミッチェル役
- 1967年「シラノ・ド・ベルジュラック」で、クリスチャン役
と、次々と名作に出演しています。
「阿Q外傳(1969年文学座公演)」のパンフレットより。中央に写っているのが細川俊之さん。
細川俊之は34歳から始まった木の実ナナとの「ショーガール」がロングランヒットとなっていた
そして、1971年には、「文学座」を退団し、主な活動の場をミュージカルに移すと、1974年には、「日曜はダメよ!」で、越路吹雪さんと共演するほか、
同年から始まった、木の実ナナさんとコンビを組んだ、「ショーガール」は1988年まで続くロングランとなりました。
「ショーガール」より。木の実ナナさんと細川俊之さん。
ちなみに、お二人は、共演期間中、新鮮さを保つため、一切、交流を持たなかったとのことで、
木の実さんは、
その分、舞台で手を握ったら、すぐ細川俊之さんの体調がわかるんです。夫婦以上のつながりがあったと思う。神さまが決めてくれたパートナー。
と、語っており、
二人の息がピッタリ合っていたからこそ、14年も続く人気公演となったようです。
細川俊之が33歳の時には「アラン・ドロン」の「あまい囁き」を中村晃子とカバー
また、細川俊之さんは、「千駄ヶ谷のアラン・ドロン」と呼ばれるほどの二枚目ぶりで人気を博す一方で、その独特の語り口調と美声から、1973年には、アラン・ドロンとダリダのヒット曲「あまい囁き」の日本語版を中村晃子さんとのデュエットでカバーしています。
とはいっても、細川俊之さんは歌を歌っておらず、語りかけるようにささやいているだけなのですが・・・
細川俊之さんの美声だと、キザな台詞も様になります♪
細川俊之は二枚目以外にも善人から悪役、コメディまで幅広く演じていた
そして、同年(1973年)、映画「女囚さそり701号怨み節」では、これまでのイメージを覆す、冷酷で狂気に満ちた児玉警部役という、憎たらしい悪役を熱演しています。
「女囚さそり701号怨み節」より。細川俊之さんと梶芽衣子さん。
また、1978年には、コメディ仕立てのホームドラマ「ムー一族」で、気の弱いチンピラ役をコミカルに演じるなど、悲喜劇問わず、善人から悪役まで、幅広く演じています。
「ムー一族」より。細川俊之さんとたこ八郎さん。
細川俊之が40歳の時には劇場版「あしたのジョー」の力石徹の声を演じていた
そんな細川俊之さんは、1980年、40歳の時には、劇場版アニメ「あしたのジョー」で力石徹の声を演じています。
劇場版ということもあり、意外と知られていなかったようですが、クールでダンディな渋い声は、「あしたのジョー」のファンからも高い評価を受けていたようです。
ちなみに、細川俊之さんは、2001年にも、缶コーヒー「BOSS」のCMで、あおい輝彦さん(ジョーの声)と共演し、コミカルな演技を披露しています。
細川俊之の元妻・小川眞由美との馴れ初めは?娘は?
ところで、細川俊之さんの気になるプライベートですが、細川俊之さんは2度結婚しています。
まず、最初の奥さんは、同じ「文学座」の女優だった、小川眞由美さんで、1967年、27歳の時に結婚しています。
細川俊之さんと小川眞由美さん。
お二人は、「文学座」の舞台、「シラノ・ド・ベルジュラック」で共演すると、小川さんはヒロインの美女ロクサーヌ役、細川俊之さんは、ロクサーヌの恋人で美男のクリスチャン役を演じ、役柄同様、美男美女同士そのまま恋に落ち、大恋愛の末に結婚に至ったのだとか。
そして、1969年には、娘の小川雅代さんが誕生したのですが・・・
1971年頃から別居すると、1973年には離婚しています。
細川俊之の再婚相手は千夏記
ただ、細川俊之さんは、離婚の翌年の1974年、34歳の時には、宝塚歌劇団卒業生(48期生)の千夏記(せん なつき)さんと再婚しています。
(奥さんについては、情報がないことから、結婚後は芸能活動はせず家庭に入ったようです)
細川俊之は50代以降は病気との闘いだった
そんな細川俊之さんですが、1994年、54歳の時、舞台「ラ・カージュ・オ・フォール」をけいれん発作重積症のため降板すると、翌1995年には、糖尿病で入院し、映画「ゴジラVSデストロイア」も降板。
さらには、同年、脳内出血で倒れて入院と、次々と病魔に襲われます。
そして、その後も、体調はあまりよくなかったようで、俳優活動は減らし、2004年からは、大阪芸術大学芸術学部舞台芸術学科演出コースの教授に就任し、年15回ほど教壇に立っていたそうです。
細川俊之の死因
しかし、2011年1月12日、71歳の時には、自宅の居間で倒れた際に頭部を強打すると、病院に緊急搬送されるも、意識不明の昏睡状態となって、手の施しようがない状態だったそうで、2日後の1月14日、急性硬膜下血腫のため、他界されたのでした。
ちなみに、細川俊之さんは、生前、大学病院への検体を申し出られていたため、遺体は病院に移送され、遺骨は1年後に奥さんのもとに戻ったそうで、通夜・葬儀は行われなかったそうです。
(検体とは、大学の医学部や歯学部で行われる人体解剖学実習の教材で、細川俊之さんは、無条件、無報酬で提供したのだそうです)
さて、いかがでしたでしょうか?
独特の声と甘いマスクのジェントルマンとして人々を虜にした細川俊之さんですが、プライベートでも、自宅近くのレストランへ奥さんと訪ねては、店員に気さくに声をかけていたほか、検体まで遺言するなど、細川俊之さんは、公私共に、そして、亡くなるときまで、ジェントルマンだったのでした。