1933年、22歳の時、歌舞伎劇団「前進座」に入り、若手歌舞伎役者として活躍すると、同年には、「段七しぐれ」で映画デビューも果たし、以降、山中貞雄監督の、「河内山宗俊」(1936年)、「人情紙風船」(1937年)などに出演した、加東大介(かとう だいすけ)さん。

そんな加東大介さんは、1911年、3歳の時、歌舞伎「宮戸座」で初舞台を踏むと、子役としてたちまち頭角を現しているのですが、子役時代は、姉の沢村貞子さん(後に女優)が付き人となって、いろいろ面倒をみてくれたといいます。

今回は、加東大介さんの、生い立ち(幼少期)、姉・沢村貞子さんとのエピソードなどをご紹介します。

加東大介

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加東大介のプロフィール

加東大介さんは、1911年2月18日生まれ、
東京市浅草区(現・東京都台東区)の出身、

身長160センチ、

学歴は、
東京府立第七中学校(現・東京都立墨田川高等学校)卒業、

本名は「加藤徳之助」で、旧芸名は「市川莚司」だそうです。

加東大介の兄は四代目澤村國太郎、姉は沢村貞子、津川雅彦と長門裕之は甥

加東大介さんは、

父は、宮戸座の座付き作者で演出助手だった竹芝傳蔵さん、
兄は、歌舞伎役者の四代目澤村國太郎さん、
長姉は、福祉運動家の矢島せい子さん、
次姉は、女優で随筆家の沢村貞子さん、
甥(兄の息子)は、俳優の津川雅彦さん・長門裕之さん兄弟、

という芸能一族です。

加東大介は3歳の時に子役として舞台デビューするとたちまち頭角を現していた

加東大介さんは、歌舞伎「宮戸座」の座付き作者だったお父さんの竹芝傳蔵さんとお母さんのマツさんのもと4人きょうだい(男2人、女2人)の末っ子(次男)として誕生すると、

役者になる夢を親族の反対で断念し、「自分のこどもはみな役者にする」という悲願を持っていたお父さんにより、1914年、3歳の時、「宮戸座」で初舞台を踏むと、自然なセリフや仕草がお客さんの涙を誘うなど、その演技がたちまち評判となり、子役として頭角を現したそうですが、

実は、お父さんは、自分の夢を継いで役者になってくれる男の子を熱望していたそうで、女の子には全く関心がなく、第1子で長女の矢島せい子さんが誕生した時には、生後1ヶ月も経たないうちに自分の妹に里子に出し、

第2子に、自分に似て端正な顔立ちをした長男の澤村國太郎さんが誕生した時は、小躍りして喜び、その後、次女の沢村貞子さんが生まれた時も「ちぇっ、女か」と不満を漏らしていたといいます。

そして、それから3年後には、次男の加東大介さんが誕生したそうですが・・・

お父さんは、加東大介さんの顔を見るなり、

なんだ、鼻が低いじゃねえか。俺にまるきり似てねえぜ。もし役者になれなかったらどうするんだ

と、お産直後の妻・マツさんをなじっていたといいます。

加東大介は子役時代に姉で付き人だった沢村貞子をしばしば困らせていた

さておき、加東大介さんは、子役時代、お芝居が好きだったとはいえ、まだやんちゃ盛りで、楽屋では、付き人をしてくれていたお姉さんの沢村貞子さんをしばしば困らせていたそうですが、

沢村貞子さんが途方に暮れて泣いてしまうと、

おれ、大きくなったらいい役者になって、姉ちゃんの好きな果物、毎日食べさせてやるからさ――泣くなよ、な、な

と、言って、慰めたといいます。

(加東大介さんは、4歳頃から、当時小学2年生だった沢村貞子さんに付き人をしてもらっていたそうです)

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加東大介が10代の頃は良い役が回ってこなくなり役者をやめようと思ったこともあった

ただ、家柄がものを言う歌舞伎の世界において、名門の出身ではなかった加東大介さんは、子役の年齢が過ぎると、お芝居に対しての情熱や才能がありながらも、(兄のように容姿に恵まれなかったため)途端に出番がなくなり、ふさぎ込むようになったといいます。

それでも、必死に黒子をしながら、舞台袖で先輩たちの芝居を食い入るように見つめて研究を重ねるほか、日本舞踏も学んで、瞬く間に上達したそうですが・・・

やはり、良い役は回ってこず、姉の沢村貞子さんの手を握り、

姉ちゃん、おれ、役者をやめるよ

と、悔し涙を流したこともあったといいます。

「【画像】加東大介の若い頃は?「南の島に雪が降る」ほか出演映画ドラマ一覧!」に続く

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