1933年に歌舞伎劇団「前進座」に入り、若手歌舞伎役者として活躍されると、同年「段七しぐれ」で映画デビューも果たされた、加東大介(かとう だいすけ)さん。戦争中には応召されるも、復員後は映画俳優に専念し、黒澤明監督、小津安二郎監督作品の常連俳優として数多くの作品に出演。「大番シリーズ」や「社長シリーズ」など、コミカルな演技で人気者となられました。
プロフィール!
加東さんは、1911年2月18日生まれ、
東京市浅草(現在の東京都台東区)のご出身です。
身長171センチ、
学歴は、
東京府立第七中学校(現在の東京都立墨田川高等学校)、
本名は、加藤徳之助、
お兄さんには、
歌舞伎役者の沢村国太郎(さわむら くにたろう)さん、
お姉さんには、
女優の沢村貞子(さわむら さだこ)さん、
がいらっしゃいます。
歌舞伎役者として
加東さんは、お父さんが、
小芝居(歌舞伎芝居)の劇場「宮戸座」の、
座付き作者で演出家助手をしていたことから、
歌舞伎役者と親交が深く、
東京府立第七中学校を卒業後の1929年には、
二世(二代目)市川左団次に入門。
1933年には歌舞伎劇団「前進座」に入られると、
「市川莚司」を名乗り、山崎進蔵(河野秋武)さん、
市川扇升さんととともに活躍されています。
また、同年、「段七しぐれ」で、
映画デビューも果されると、その後は、
1935年「清水次郎長」
1936年「河内山宗俊」
1937年「人情紙風船」
1938年「阿部一族」
1939年「その前夜」
1941年「元禄忠臣蔵 前後篇」
と、次々と映画に出演されています。
「阿部一族」より。
「南の島に雪が降る」
こうして、新進俳優として、
期待されていた加東さんですが、
戦争中の1943年には応召され、
ニューギニアのマノクワリに行かれます。
すると、そこは、主力部隊から脱落し、
見放され、救援物資さえも届かない戦地で、
戦友たちは飢えとマラリアで、
次々に命を落としていったそうで、
そんな過酷な状況の中、加東さんは、
兵士たちを鼓舞するため、劇団づくりを上官から命じられ、
劇場を開設すると、次々と公演を敢行。
もちろん、ありあわせのもので作った粗末な舞台でしたが、
いつ日本に帰れるか分からない日本兵にとっては、
その舞台は希望そのもので、時には、
重病人を回復させる程の力を発揮したのだそうです。
そして、ある時、長谷川伸脚本の、
「関の弥太っぺ」を上演した際、
雪が降るシーンで、紙を使った雪を降らせると、
いつもなら、観客から歓喜の声が上がっていたのですが、
その日はいくら待っても、しんとしていたため、
加東さんが不審に思い、舞台袖から観客を覗くと、
東北出身の兵士たちが故郷をしのんでむせび泣いていたそうです。
この時の兵士たちの姿を記録したものが、後に「文藝春秋」に発表された、
「ジャングル劇場の始末記 – 南海の芝居に雪が降る」(1961年)で、
「第20回文藝春秋読者賞」を受賞。
同年には「南の島に雪が降る」として単行本が出版されると、
ベストセラーになり、テレビドラマ化、映画化。
いづれも加東さん自身が主演を務め、大きな話題となったのでした。
「南の島に雪が降る」より。
「七人の侍」「大番シリーズ」が大ヒット
そして、1946年に復員されると、
再び俳優として活動されるのですが、
左翼に傾いていった「前進座」は嫌気が差して退団。
加東さんは、お兄さん、お姉さんとともに、
新たな劇団を結成されるのですが、
経営がうまくいかなかったことから、
舞台を離れて映画俳優に専念する決意をし、
芸名を「市川莚司」から「加東大介」に改名されています。
以降は、
1950年「羅生門」
1952年「生きる」
1954年「七人の侍」
1961年「用心棒」
「七人の侍」より。
など、黒澤明監督作品の常連俳優となられると、
成瀬巳喜男監督、小津安二郎監督らの作品にも数多く起用され、
名脇役として不動の地位を築かれます。
また、1957年には、映画「大番」で、
主人公、株屋のギューちゃんこと赤羽丑之助役に抜擢されると、
学はないが、愛嬌のあるギューちゃんを、
ユーモラスで、エネルギッシュに演じられ、
映画は大ヒットを記録。
同年「続大番 風雲編」
「続々大番 怒濤篇」
1958年「大番 完結篇」
と、シリーズ化されるほどの人気を博したのでした。
「大番 完結篇」より。淡島千景さんと加東さん。
一方で、加東さんは、
テレビドラマにも出演されており、
中でも、大河ドラマでは、
1966年「源義経」
1968年「竜馬がゆく」
1970年「樅ノ木は残った」
1972年「新・平家物語」
1974年「勝海舟」
と数多く出演されています。
「竜馬がゆく」より。勝海舟に扮する加東さんと、
竜馬に扮する北大路欣也さん。
死去
しかし、1975年2月、
体調を崩され入院されると、「結腸癌」が発覚。
ご本人にはその事実は知らされず、
レギュラー出演されていたテレビドラマ「6羽のかもめ」
の収録現場には、病院から通い続けられたのですが、
同年7月31日、64歳で他界されたのでした。
さて、いかがでしたでしょうか?
戦争中には、過酷な戦地において、お芝居で兵士たちを励まし、
戦後も、お芝居で人を喜ばせ続けた加東さん。
そんな加東さんの夢は、意外にも、
縁日でお店を出すことだったそうですが、
加東さんはそのことについて、
かつて、雑誌のインタビューで、
子供のころ浅草で育った私は、よく縁日にゆきました。
色とりどりのお面や風車をたくさん並べて売っている人を見ると、「なんとこの人は物持ちなんだろう」と感心したり、
自分がこの人になって、おもちゃも買ってもらえない友達に、
どんどんあげられたら・・・という空想をしたこともありました。その夢は今でも持ち続けています。
子供が大好きな私は、いちど縁日に店を出して、
通りすがりの子供さんたちに、おもちゃを配りたいと思っています。
と、語っておられます。
きっと、そんなお人柄が、
黒澤監督をはじめ、多くの名だたる監督達から、
愛されたのかもしれませんね。
加東さんのご冥福をお祈り致します。