下町っ子らしい気風の良さから多くの映画監督にかわいがられ、黒澤明監督、成瀬巳喜男監督、小津安二郎監督作品の常連俳優として、数多くの映画に出演した、加東大介(かとう だいすけ)さん。
そんな加東大介さんは、プライベートでは真砂子(元女優の京町みち代)さんと結婚しています。
今回は、加東大介さんの、妻・真砂子(京町みち代)さんとのエピソードと、子供(息子)についてご紹介します。
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加東大介と妻・真砂子(京町みち代)は結婚後も夫婦仲が良かった
加東大介さんは、いつ頃かは不明ですが、松竹少女歌劇団の娘役で女優の「京町みち代」こと、真砂子さんと結婚しています。
加東大介さんと真砂子さんがどのように知り合い、いつ頃から交際して、どのような経緯で結婚に至ったかは不明ですが、
真砂子さんにとって、加東大介さんは初恋の人で、結婚後はとても仲睦まじい夫婦だったといいます。
また、結婚後、2人は、加東大介さんの両親と姉・沢村貞子さんと同居していたそうですが、勝ち気な下町娘だった真砂子さんは、まるで本当の肉親のように、加東大介さんのお母さんや沢村貞子さんと仲が良かったといいます。
(左から)加東大介さんのお母さん、真砂子さん、息子さん、加東大介さん。
ちなみに、沢村貞子さんによると、真砂子さんは、加東大介さんに太平洋戦争の召集令状が来た時、加東大介さんに寄り添いながら、下町娘らしい勝ち気さで、歯をくいしばり、声を立てずに泣いていたそうで、
沢村貞子さんさんは、著書「貝のうた」で、
この妹が、私はいとしくて、弟が帰るまで、どんなことをしても守ってやりたいと思った。
と、綴っています。
加東大介の妻・真砂子(京町みち代)はどんな形でも夫に生きて戦争から帰ってきて欲しいと願っていた
その後、加東大介さんがニューギニアに召集されると、真砂子さんら家族には、南方に行ったという知らせが来たそうですが、まもなく消息が分からなくなったそうで、
沢村貞子さんによると、真砂子さんは、心労で日に日に痩せていったそうですが、相変わらず、歯を食いしばって涙をこらえ、台所で、
こんな思いをさせられているのは私ひとりじゃないんだから・・・でも、どんなことをしても生きて帰ってもらいたいわ・・・片脚、片目がなくなっても・・・
と、薄いお粥を作りながら、低い声でささやいていたといいます。
加東大介の妻・真砂子(京町みち代)は夫の戦死の噂を聞くも信じず生還を待ち続けていた
また、そんな中、加東大介さんが戦死したという噂も流れてきたそうですが、
真砂子さんは、加東大介さんが生きて帰って来るという望みを捨てずにいたそうで、
1945年8月、近所のラジオで敗戦を知ると、多くの人々が呆然とする中、目を輝かせ、
終わったのよ、終わったのよ、私の旦那様が帰ってくるのよ
と、沢村貞子さんの手を取って、家の中をぐるぐると踊り回り、
その後、いきなり、バケツを持ち出して掃除を始め、
私の旦那様が帰ってくる
と、家を磨き上げたのだそうです。
加東大介は妻・真砂子(京町みち代)と終戦から約1年後に再会を果たしていた
そして、終戦から約1年後、ついに、真砂子さんたち家族が住む京都に加東大介さんが戻ってきたそうですが・・・
加東大介さんは、その夜、戦地で感染したマラリアが再発して、倒れてしまったそうで、1週間、生死の境をさまよい、ようやく意識を取り戻したのだそうです。
ちなみに、加東大介さんは、その時のことを、著書「南の島に雪が降る」で、
やっと目をあけたとき、なにか黒いボンヤリとしたものが正面に浮いていた。長い時間かかって、どうやらピントが合ったと思ったら、家内がわたしの顔をのぞきこんでいた。
結婚してから今日まで、あのときくらい、女房がきれいに見えたことは、ちょっとなかったような気がする。
「お帰んなさい」ポツンと妻がいった。
「ウン、ただいま」
これが二人の第一声だった。
と、綴っています。
加東大介の息子は加藤晴之
そんな加東大介さんと妻・真砂子さんの間には、男の子が1人誕生しており、元・デザイナー(車)の加藤晴之さんです。
加藤晴之さんは、成城大学中退後、欧州旅行を経て、車のデザインの勉強をするために武蔵野美術大学に入学すると、その後、イタリアにある一流デザイン会社「イタル」でデザイナーの修業をし、その後、SONYにデザイナーとして就職したそうですが、
ある時、自然食に目覚め、SONYを退社して、お母さんの八ヶ岳の別荘に移住すると、そこで600坪の畑を借り、自然野菜を作り始めたそうで、
そんな中、八ヶ岳にある蕎麦の名店「翁」を訪れると、オーナーから、蕎麦を自然農法で育ててみないかとオファーされたことから、蕎麦の基本を身につけ、蕎麦屋「黒森庵」をオープンしています。
その後、2011年には休業となっていたそうですが、それから12年後の2023年には、不定期臨時営業という形で「スイーツ黒森庵」をオープンすると、3人の娘たちが引き継いでいるといいます。
(ちなみに、加藤晴之さんは、黒澤明監督の娘・黒澤和子さんと結婚し、息子が2人誕生するも、その後、離婚し、中学時代の同級生と再婚すると、3人の娘が誕生しています)
さて、いかがでしたでしょうか。
加東大介さんの、
- 加東大介の生い立ちは?姉・沢村貞子は子役時代に付き人だった!
- 加東大介のプロフィール
- 加東大介の兄は四代目澤村國太郎、姉は沢村貞子、津川雅彦と長門裕之は甥
- 加東大介は3歳の時に子役として舞台デビューするとたちまち頭角を現していた
- 加東大介は子役時代に姉で付き人だった沢村貞子をしばしば困らせていた
- 加東大介が10代の頃は良い役が回ってこなくなり役者をやめようと思ったこともあった
- 【画像】加東大介の若い頃は?「南の島に雪が降る」ほか出演映画ドラマ一覧!
- 加東大介は22歳の時に歌舞伎劇団「前進座」に入団し山崎進蔵(河野秋武)、市川扇升と共に若手三羽烏として活躍していた
- 加東大介は22歳の時に「段七しぐれ」で映画デビュー
- 加東大介は33歳の時に戦争に召集されていた
- 加東大介は33歳の時に召集先のニューギニアで「マノクワリ歌舞伎座」を設立し公演を行っていた
- 加東大介は37歳の時に映画俳優に転身し大映京都と専属契約を結んでいた
- 加東大介が39歳~50歳の時には「羅生門」「生きる」「七人の侍」「用心棒」など黒澤明監督作品に出演
- 加東大介は46歳の時に主演映画「大番」が大ヒット
- 加東大介は50歳の時に「南の島に雪が降る」がベストセラー
- 加東大介は50代~60代の時に「源義経」「竜馬がゆく」「樅ノ木は残った」「新・平家物語」「勝海舟」とNHK大河ドラマに数多く出演
- 加東大介の死因は結腸癌
- 加東大介の出演作品(テレビドラマ)
- 加東大介の出演作品(映画)
- 加東大介の妻・京町みち代の健気さが泣ける!子供は1人息子の加藤晴之!
- 加東大介と妻・真砂子(京町みち代)は結婚後も夫婦仲が良好だった
- 加東大介の妻・真砂子(京町みち代)はどんな形でも夫に生きて帰ってきて欲しいと願っていた
- 加東大介の妻・真砂子(京町みち代)は夫の戦死の噂を聞くも信じず生還を待ち続けていた
- 加東大介は妻・真砂子(京町みち代)と終戦から約1年後に再会を果たしていた
- 加東大介の息子は加藤晴之
について、ご紹介しました。
戦争中には、過酷な戦地において、お芝居で兵士たちを励まし、戦後も、お芝居で人を喜ばせ続けた加東大介さん。
そんな加東大介さんの夢は、意外にも、縁日でお店を出すことだったそうで、
加東さんはそのことについて、かつて、雑誌のインタビューで、
子供のころ浅草で育った私は、よく縁日にゆきました。色とりどりのお面や風車をたくさん並べて売っている人を見ると、
「なんとこの人は物持ちなんだろう」と感心したり、自分がこの人になって、おもちゃも買ってもらえない友達に、どんどんあげられたら・・・という空想をしたこともありました。
その夢は今でも持ち続けています。子供が大好きな私は、いちど縁日に店を出して、通りすがりの子供さんたちに、おもちゃを配りたいと思っています。
と、語っているのですが、
きっと、そんな人柄が、黒澤明監督をはじめ、数多くの名監督達から愛されたのかもしれませんね。
1933年、22歳の時、歌舞伎劇団「前進座」に入り、若手歌舞伎役者として活躍すると、同年には、「段七しぐれ」で映画デビューも果たし、以降、山中貞雄監督の、「河内山宗俊」(1936年)、「人情紙風船」(1937年)などに出 …