数多くの外国賞を受賞され、「世界のクロサワ」と呼ばれた、日本が誇る映画監督、黒澤明(くろさわ あきら)さん。「スター・ウォーズ」「未知との遭遇」「ゴッドファーザー」「プライベート・ライアン」など名作と言われている作品に、黒澤さんの手法が取り入れられるなど、世界中の映画監督に影響を与えています。


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プロフィール!

黒澤さんは、1910年3月23日生まれ、
東京府荏原郡大井町(現在の東京都品川区)のご出身です。

身長182センチ、

好きな食べ物は、
肉料理、ウィスキー、

だそうです♪

絵と文学で才能を開花

黒澤さんは、小学3年生の時、
図画の時間に描いた絵が個性的だったため、
みんなに笑われるのですが、

担任の先生に褒められたことで、
絵を描くことが好きになり、

中学に入学すると、
「同舟舎洋画研究所」に通い始めます。

また、その一方で、
ドストエフスキー、トルストイ、ツルゲーネフ、
などのロシア文学を読みふけり、

ご自身でも、
「蓮華の舞踏」「或る手紙」
という作文を書いているのですが、

これが学友会誌に掲載され、国語教師に、
「創立以来の名文」と絶賛されたそうです。

画家を目指す

そんな黒澤さんは、1927年、
中学を卒業されると、画家になることを志し、

美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)
を受験されるのですが、残念ながら不合格に。

それでも画家になることが諦められず、
川端画学校に通って洋画を勉強していると、

翌年の1928年、
ついに、二科展で「静物」が入選。

このことがきっかけかは分かりませんが、
同年、「造形美術研究所」(後のプロレタリア美術研究所)
に入られると、

翌年の1929年には、
「日本プロレタリア美術家同盟」に参加。

結成者のひとりで、プロレタリア画家の、
岡本唐貴さんに絵を教えてもらったのでした。

映画界へ

しかし、その後、
画家として芽が出なかったのか、

黒澤さんは、1936年、
画業に見切りをつけると、

新聞広告で、「P.C.L.映画製作所」(後に東宝と合併)の、
助監督募集を見つけ、応募。

黒澤さんは、なんと、100倍の難関を突破して、
見事合格されたのでした。

入社後は、映画監督の谷口千吉さんの推薦により、
主に、山本嘉次郎監督の元で助監督をされると、

山本さんのアドバイスでシナリオを書き始め、
1941年、「達磨寺のドイツ人」を、
書き上げておられるのですが、

このシナリオは、
映画化はされなかったものの、

映画評論家の間で注目され、
映画監督で脚本家の伊丹万作さんから、
絶賛されたのでした。

幻のデビュー作

その後、黒澤さんは、
シナリオ「敵中横断三百里」を書かれ、
これが、初監督作品となるはずだったのですが、

新人監督としてはスケールが大きすぎる、
という理由で、実現せず・・・

余談ですが、この企画を見送った、
映画プロデューサーの森田信義さんは、後に、

「私の一生の最大のミステーク」

と、語っておられたそうです。

映画監督デビュー

そして、黒澤さんは、1943年、
ついに、「姿三四郎」で監督デビューすると、

この作品はたちまちヒットを記録し、
新人監督に贈られる「山中貞雄賞」を受賞。

その後も、
1945年には「一番美しく」
       「虎の尾を踏む男たち」(公開は1952年)
1946年には「わが青春に悔なし」
1947年には「素晴らしき日曜日」

と、次々に作品を発表すると、
いずれも高く評価され、

黒澤さんは、東宝を代表する、
映画監督となられたのでした。

三船敏郎との出会い

ところで、黒澤さんは、1946年、
女優の高峰秀子さんから、

「東宝ニューフェイス」の俳優オーディションで、
面接を受けている三船敏郎さんの存在を聞き、
オーディション会場に駆けつけるのですが、

三船さんをひと目みた黒澤さんは、
ただならぬ気配を感じたそうで、

本来なら不合格となっていた三船さんを、
わざわざ、審査委員長の山本嘉次郎監督に、
直訴して採用してもらうと、

翌年の1947年には、
三船さんのデビュー作となった、
「銀嶺の果て」で脚本を担当。

「用心棒」を撮影中の黒澤監督と三船敏郎さん。

翌年の1948年には、ご自身の作品、
「醉いどれ天使」で三船さんを起用し、

以降、三船さんを、
起用し続けたのでした。

世界のクロサワへ

そして、1950年、黒澤さんは、
映画「羅生門」を発表(三船さん主演)。

「羅生門」より。

この作品は、人間のエゴイズムを鋭く追求した、
難解な作品だったため、

国内での評価は、高くありませんでしたが、
海外では、大きな反響を呼び、

翌年の1951年、日本映画初となる、
「ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞」と、
「アカデミー賞名誉賞」を受賞。

さらに、1952年、「生きる」で、
「ベルリン国際映画祭上院特別賞」

1954年、「七人の侍」で、
「ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞」

1958年、「蜘蛛巣城」で、
「ベルリン国際映画祭銀熊賞(監督賞)」

と、次々に栄えある賞を受賞し、
黒澤さんは、その名を世界に轟かせたのでした。

不遇の時代

こうして黒澤さんは、
映画監督の地位を確かなものにされるのですが、

1965年に発表した「赤ひげ」は、
完全主義を徹底したことで、

撮影期間は、約1年を要し、
予算も大幅に超過したため、
東宝との関係が悪化。

黒澤さんは、東宝との専属契約を、
解除されてしまうのでした。

「赤ひげ」より。

そして、1968年、
ハリウッドからオファーを受け、

日米合作映画「トラ・トラ・トラ!」
の製作に参加されるも、

日本とアメリカの映画作りの方法が違うことから、
監督を降板させられてしまいます。

「トラ・トラ・トラ!」より。

また、その1年後の1969年には、
初のカラー作品「どですかでん」を製作。

この作品は、かつて、
画家を目指していた黒澤さんが、

独特な色彩感覚で、
社会の底辺に生きる人々の姿を、
描いているのですが、

黒澤さんは、この作品の制作のため、
邸宅を抵当に入れてまで資金を調達するも、
商業的には失敗。

「どですかでん」より。

そのせいか、監督の仕事は激減し、
資金も集めることができず、

撮りたい映画が撮れない苦悩と、
先の見えない精神的な不安に苛まれ、

1971年、とうとう、浴室で手首を切って、
自殺を図られたのでした。

再び世界で輝く

幸い、一命を取り留めたものの、
失意のどん底にいた黒澤さんですが、

そんな「どですかでん」を、
旧ソ連が高く評価。

黒澤さんは、1975年、
ソ連に招かれて、映画製作を要請され、
「デルス・ウザーラ」を完成させると、

「モスクワ映画祭金賞」
「アカデミー外国語映画賞」
を受賞。

黒澤さんは、再び、
世界に返り咲いたのでした。

「デルス・ウザーラ」より。

こうして、黒澤さんは、
かつての勢いを取り戻され、

1980年には、ジョージ・ルーカスさん、
フランシス・フォード・コッポラさん、
の支援を受けて製作された、

「影武者」を発表し、
「カンヌ国際映画祭パルム・ドール賞」を受賞。

「影武者」より。

1985年には、
フランスとの合作「乱」

「乱」より。

1990年には、
アメリカ、ワーナー・ブラザースと、
スティーヴン・スピルバーグさん提供の、
「夢」を発表されています。

「夢」より。

いずれも名作といわれている、
素晴らしい作品ですが、
外国資本で製作されていたのですね。

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死去

その後も、黒澤さんは、映画を作り続け、
1993年、映画「まあだだよ」を発表。

しかし、1995年、
次回作「雨あがる」の脚本執筆中、
京都の旅館で転倒し、骨折されると、

そのまま療養生活に入り、
1998年、脳卒中により他界されています。(享年88歳)

「まあだだよ」より。

さて、いかがでしたでしょうか?

今なお、世界中の映画人、著名人を虜にし続け、
影響を与え続けている黒澤さんですが、

黒澤作品は、
「妥協を許さない徹底した演出」
「絵画のように美しい映像」
「迫真に迫る俳優の演技」
「考え抜かれたストーリー」
と、
どこを取っても秀逸で、
まさに、映画を極めた作品。

黒澤映画を観たことがない人は、
ぜひ、この機会に、
その世界に圧倒されてみてはいかが?

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