1943年、「姿三四郎」で映画監督デビューすると、1948年「醉いどれ天使」と1949年「野良犬」で日本映画の旗手として注目され、
以降、「羅生門」(1950年)、「生きる」(1952年)、「七人の侍」(1954年)、「用心棒」(1961年)など、次々と作品を発表し、いずれも高く評価された、黒澤明(くろさわ あきら)さんですが、
実は、小学3年生の時、図画の時間に自由に描いた絵を担任の先生に褒められたことがきっかけで画家を志すと、20代前半までは、画家として活動していたといいます。
今回は、黒澤明さんの、幼少期(生い立ち)、画家時代の活動などをご紹介します。
黒澤明のプロフィール
黒澤明さんは、1910年3月23日生まれ、
東京府荏原郡大井町(現・東京都品川区東大井三丁目)出身、
身長182センチ、
血液型はB型、
学歴は、
南高輪幼稚園(森村学園幼稚園)
⇒南高輪尋常小学校(森村学園初等部)
⇒小石川の黒田尋常小学校(転校)
⇒京華中学校卒業
好きな食べ物は、肉料理、ウィスキー、
ちなみに、「黒澤明」は本名だそうです。
また、黒澤家は、秋田県出身の旧家柄の武士の家系で、そのルーツは、平安時代中期(11世紀)の武将である阿部正任(安倍黒沢尻五郎正任とも)まで遡るとされています。
黒澤明が幼い頃は身体が弱く泣き虫で知的な発育も遅れていた?
黒澤明さんは、元軍人で体育教師のお父さん・黒澤勇さんとお母さんのシマさんのもと、
お父さんが勤めていた荏原中学校の職員社宅で、8人きょうだい(男4人女4人)の末っ子として誕生したそうですが、
幼い頃は、繊細で泣き虫な子供だったそうです。
また、幼い頃は、身体が弱く、知的な発育も遅れていたと言われています。
(黒澤明さんの兄と姉は、長姉・茂代さん、長兄・昌康さん、次兄・忠康さん(既に他界)、次姉・春代さん、三姉・種代さん、四姉・百代さん、三兄・丙午さんというそうです)
黒澤明は小学3年生の時に担任に褒められたことで絵を描くことが好きになっていた
そんな黒澤明さんは、小学校3年生の時には、図画の時間に描いた絵が個性的だったため、みんなに笑われたそうですが、
担任の立川精治先生に褒められたことで、絵を描くことが好きになったそうで、絵を褒められたことで自信がつき、同時に学校の成績も伸びたそうで、やがては級長にもなったそうです。
(立川精治先生は生徒の自由な発想を大事にするという斬新な教育をしていたそうで、図画の時間では、生徒たちに好きな絵を自由に描かせていたのだそうです)
黒澤明は小学生の時に父親によく映画館に連れて行ってもらっていた
一方、黒澤明さんは、お兄さんたちと共に、お父さんに頻繁に近くの寄席(よせ)や映画館に連れて行ってもらっていたそうで、
黒澤明さんは、特に、西部劇や連続活劇を観るのが好きだったそうです。
(当時、映画は教育上好ましくないと思われていたそうですが、黒澤明さんのお父さんは、映画を教育的価値のあるものだと考えていたそうで、積極的に子供たちに映画を観賞させていたのだそうです)
黒澤明の中学生時代は画家を志しつつも作文が絶賛されていた
そんな黒澤明さんは、1922年、黒田尋常小学校を首席で卒業し、(府立第四中学校の受験に失敗したことから)京華中学校に入学すると、
画家を志し、小林萬吾さんが主宰する「同舟舎洋画研究所」に通い始めたそうですが、
その一方で、4歳年上の三兄・丙午(へいご)さんの影響で、ドストエフスキー、トルストイ、ツルゲーネフ、などのロシア文学を読みふけり、
自身でも、「蓮華の舞踏」(1924年)、「或る手紙」(1926年)と、自然を描写した作文を書くと、
学友会誌に掲載され、国語教師に、
創立以来の名文
と、絶賛されたのだそうです。
ちなみに、黒澤明さんは、13歳の時、丙午さんに関東大震災直後の被災地に連れて行かれたことがあったそうですが、その惨状を直視した経験は、後に、黒澤明さんの作品に大きな影響を与えたそうです。
黒澤明は画家を志し東京美術学校(東京藝術大学美術部)を受験するも不合格となっていた
そして、1927年、中学校卒業後は、画家を志し、東京美術学校(現在の東京藝術大学美術部)を受験したそうですが・・・不合格となったそうで、
画家になることが諦められなかった黒澤明さんは、その後、川端画学校に通い、洋画の画技を磨くと、翌年の1928年、18歳の時には、油絵「静物」が第15回二科展に入選。
その後、「造形美術研究所」(後のプロレタリア美術研究所)に入所し、翌年の1929年、「日本プロレタリア美術家同盟」に参加すると、「日本プロレタリア美術家同盟」の設立者の一人でプロレタリア画家の、岡本唐貴さんに絵を教えてもらったのだそうです。
黒澤明は20歳頃から絵画で政治的主張ができないことに疑問を感じ絵を描く情熱を失っていた
そんな黒澤明さんは、同年(1929年)12月には、「第2回プロレタリア美術大展覧会」で政治色の強い5作品を出品し、1930年の「第3回プロレタリア美術大展覧会」では「反×ポスター」を出品したそうですが・・・
官憲に撤回されてしまったそうで、やがては、社会的なメッセージを絵画で十分に表現できないことに疑問を感じ、絵を描く情熱を失っていったのだそうです。
また、1933年7月には、黒澤明さんに大きな影響を与えた三兄の丙午さんが伊豆湯ヶ島温泉の旅館で愛人と服毒自殺、その4ヶ月後には長兄の昌康さんも病死し、黒澤家で生き残った男の子は黒澤明さんただ1人となったのだそうです。
(丙午さんの死は、その後、長い間、黒澤明さんに深い悲しみと喪失感をもたらしたそうで、黒澤明さんは、この出来事を語ることを長らく避けていたといいます)
「黒澤明の若い頃(助監督時代)は山本嘉次郎監督に師事!脚本が絶賛されていた!」に続く
「七人の侍」「羅生門」「生きる」「用心棒」「天国と地獄」「影武者」など、数々の傑作を世に送り出して、”世界のクロサワ”と称され、スティーブン・スピルバーグ、ジョージ・ルーカス、フランシス・フォード …