1929年、5歳の時、映画「母」で子役としてデビューすると、その後、「大東京の一角」「愛よ人類と共にあれ」「東京の合唱」などに出演し、たちまち人気子役となった、高峰秀子(たかみね ひでこ)さん。
そんな高峰秀子さんは、4歳の時に、実母と死別し、叔母の養女となったそうですが、5歳の時に、養父に連れられて松竹撮影所を訪ねると、たまたま、映画「母」の子役オーディションの日で、飛び入り参加したところ、なんと、参加者60人の中から、見事選ばれていたといいます。
今回は、高峰秀子さんの幼少期(生い立ち)から子役時代(~13歳)までをご紹介します。
高峰秀子のプロフィール
高峰秀子さんは、1924年3月27日(木曜日)生まれ、
北海道函館市の出身、
身長158センチ、
学歴は、
蒲田の尋常小学校中退?
(徹夜の撮影も多かったため、ほとんど通えなかったそうです)
⇒文化学院中退
ちなみに、本名は「平山秀子」で、結婚後は「松山秀子(まつやま ひでこ)」、愛称は「デコちゃん」、芸名の「高峰秀子」は、養母・志げさんが活動弁士として働いていた時の芸名をそのまま引き継いだのだそうです。
また、おじいさんの平山力松さんは、蕎麦屋料亭「マルヒラ砂場」を経営するほか、「マルヒラ劇場」「マルヒラカフェ」などを経営する地元の有力者だったそうです。
高峰秀子は4歳の時に実母と死別し叔母の養女になっていた
高峰秀子さんは、お父さんの平山錦司さんとお母さんのイソさんのもと、5人きょうだい(兄3人、弟1人)の長女(4番目)として誕生したそうですが、
4歳の時に、お母さんが結核で他界してしまったことから、かねてより、高峰秀子さんを養女に望み、名付け親にもなっていたという、叔母(父親の妹)の志げさんの養女となって、東京に移り住んだそうで、
高峰秀子さんは、この時のことを、
私は北海道の函館で生まれた。大正十年の函館の大火事に続いて、生母の死など、もろもろの家庭の事情の末に、首からゴム製の乳首をブラ下げた幼女の私は養母に手を引かれて上京した。
生母の顔もウロおぼえ、函館の印象もほとんどないままに、東京は自然に私の「故郷」になった。
と、綴っています。
ちなみに、志げさんは、20歳を過ぎた頃、流れ者の活動弁士だった荻野市治さんという男性について東京に行き、最初は内縁関係で後に籍を入れたそうですが、
荻野さんは、あまり誠実な人ではなく、滅多に家に帰ってこなかったことから、志げさんは、子供でもいれば繋ぎ止められるのではと思い、自分を欲しがったのでは、と、高峰秀子さんは考えていたそうです。
(※活動弁士とは、無声映画時代、映画上映中に、画面の人物のセリフをしゃべったり、話の筋を説明したりする人のこと)
高峰秀子は5歳の時に映画「母」の子役オーディションに合格していた
その後、高峰秀子さんは、1929年9月、5歳の時、養父(荻野市治さん)におんぶされて松竹蒲田撮影所を訪ねたことがあったそうですが、
その際、たまたま、映画「母」の子役オーディションの日だったそうで、高峰秀子さんも養父の意向で飛び入り参加すると(オーディションの列の最後尾に並ばされたそうです)、
なんと、参加者60人の中から、見事、高峰秀子さんが、ヒロインの川田芳子さん演じる母親の娘役に選ばれたのだそうです。
(養母に手を引かれて松竹蒲田撮影所を訪ねたという説も)
高峰秀子は5歳の時に映画「母」で子役デビューすると映画が大ヒットしていた
こうして、高峰秀子さんは、1929年10月1日、松竹蒲田撮影所に入社すると、映画「母」で子役デビューしたそうですが、
同年12月1日に公開された「母」は、浅草で45日間のロングランヒットとなり、翌年にはアンコール上映されるほどの大ヒットとなったのだそうです。
(高峰秀子さんの初任給は35円だったそうです)
「母」より。真ん中が高峰秀子さん。
高峰秀子は6歳~7歳の時「大東京の一角」「愛よ人類と共にあれ」「東京の合唱」に出演し子役として人気を博していた
そんな高峰秀子さんは、その後、撮影所近くの荏原郡蒲田町北蒲田に移り住み、子役として活動を始めると、たちまち、重宝されたそうで、
1930年、6歳の時には、五所平之助監督作品「大東京の一角」、1931年、7歳の時には、島津保次郎監督作品「愛よ人類と共にあれ」、小津安二郎監督作品「東京の合唱」などに、次々と出演し、たちまち人気子役となったのでした。
(五所平之助監督は、高峰秀子さんを養女にしたいと考えていたそうですが、志げさんの反対で諦めたといいます)
「東京の合唱」より。左端が高峰秀子さん。
高峰秀子は12歳の時に映画「新道」でヒロイン・田中絹代の妹役に抜擢されていた
そして、1936年、12歳の時には、五所平之助監督作品「花籠の歌」と「新道」の2本の映画で、田中絹代さん演じるヒロインの妹役という大役に抜擢されると、田中絹代さんから実の妹のように可愛がられたそうで
高峰秀子さんは、”絹代御殿”と呼ばれる田中絹代さんの豪邸に泊まり込んで撮影所通いをするようになったのだそうです。
(この頃、故郷・函館では、祖父の平山力松さんが大火事によって破産し、一家が高峰秀子さんを頼って上京していたそうで、まだ、12歳の高峰秀子さんの肩に、9人の生活がかかっていたのだそうです)
高峰秀子は13歳の時に宝塚歌劇団に入団することを考えていた
ただ、そんな中、高峰秀子さんは、1936年(12歳)頃、映画界から逃げ出したいと思うようになっていたそうで、
この頃、熱を上げていたという、宝塚歌劇団に入団したいと考え、女優の水谷八重子さんに相談すると、
水谷八重子さんが、宝塚音楽学校校長の小林一三さんにかけあってくれたそうで、無試験で入学を許可するという返事をもらったのだそうです。
「【画像】高峰秀子の子役時代からアイドル女優時代までの出演映画や経歴は?」に続く
1929年、5歳の時、映画「母」で子役デビューすると、以降、子役として数多くの作品に出演し、その目鼻立ちのはっきりした上品な顔立ちや明るく溌剌としたキャラクターが人気を博し、絶大な人気を誇った、高峰秀子(たかみね ひでこ …