自身の映画監督第2作目「一番美しく」で主演を務めた女優の矢口陽子さんと結婚すると、結婚後は子供2人に恵まれたという、黒澤明(くろさわ あきら)さん。
今回は、そんな黒澤明さんと矢口陽子さんの間に誕生した、2人の子供(息子1人、娘1人)と、家庭内での黒澤明さんについてご紹介します。
「黒澤明の妻・矢口陽子との馴れ初めは?結婚後の関係(夫婦仲)は?」からの続き
黒澤明と矢口陽子の間には子供が2人
黒澤明さんと矢口陽子さんの間には、男の子と女の子が1人ずつ、計2人の子供が誕生しています。
息子(長男)は黒澤久雄
まず、長男は、1945年に誕生した黒澤久雄さんで、
黒澤久雄さんは、1964年、成城大学在学中、フォークバンド「ブロード・サイド・スリー(後にブロード・サイド・フォー)」を結成すると、
1966年、「ブロード・サイド・フォー」としてリリースしたファーストシングル「若者たち」が、同名ドラマの主題歌に起用され、30万枚を売り上げる大ヒットを記録。
黒澤明さんの長男・黒澤久雄さん。
ただ、その後は、留学のため「ブロード・サイド・フォー」を解散すると、その後、ソロで音楽活動をしつつ、音楽以外にも、タレントや司会としてテレビ番組に出演するようになり、
そんな中、お父さんの黒澤明監督作品「乱」(1985年)から、プロデューサーとして参加すると、以降、「夢」(1990年)、「八月の狂詩曲」(1991)、「まあだだよ」(1991)を3作連続プロデュースするほか、黒澤明さんの遺稿を映画化した「雨あがる」もプロデュースしています。
また、現在は、「株式会社黒澤プロダクション」「株式会社黒澤フィルムスタジオ」などの代表取締役社長を務めています。
娘(長女)は黒澤和子
黒澤明さんの長女は、1954年に誕生した黒澤和子さんで、
黒澤和子さんは、1972年、サン・デザイン研究所でスタイリストの勉強をすると、その後、伊東衣服研究所デザイン科に入学し、卒業後は、ファッションデザイナーとして活動。
ただ、1990年、お父さんの黒澤明監督作品「夢」で衣裳担当として参加すると、以降、「八月の狂詩曲」(1991)、「まあだだよ」(1993)の衣装を担当しています。
黒澤明さんと長女・黒澤和子さん。
また、黒澤和子さんは、黒澤明さんの映画以外にも、北野武監督映画や、「武士の一分」「どろろ」「明日への遺言」「歩いても歩いても」などの衣裳デザインを行い、映画衣裳デザイナーとして活動しています。
黒澤明は家でも”映画監督・黒澤明”だった
ちなみに、娘の黒澤和子さんによると、黒澤明さんは、負けず嫌いでとても強い人だったそうですが、お母さんの矢口陽子さんも、お父さんに負けず劣らず、強い人だったそうで、
(2人とも語調や使う言葉が強烈だったそうです)
そんな黒澤家では、家族全員が競争しているような状態で、家の中は安住の地ではなく、黒澤和子さんが、子供の頃、お父さんに何か相談しても、
自分で考えろよ。どうにか工夫しろ
と、言われておしまいで、
黒澤和子さんは、黒澤家について、
皆さんインタビューとかで「いいお父さんだったよね」という話に帰結したがりますが、正直私の場合そんなのちっとも関係ない。私自身、すっごく不良だった時期もあります。反発するのが当たり前。
親は全部映画に頭を奪われちゃって、父は映画を撮ることしか考えてないわけだし、母だって手一杯。いくら子供のことを考えてると言ったって、人間のできる範囲なんて決まってるんですよ。何か相談をしても、最後には「アンタだって黒澤の血を引いてるんでしょ、自分で考えろ」と言われておしまいでした。
とにかく映画が中心にあった家。我が家には決まりがあって、父の仕事中はどんなに撮影期間が長くても、人の生き死にに関係する以外、絶対に電話を掛けてはいけなかったんです。「声を聞いたら里心がつくから」という、元来心配性の父の理由で。
と、語っており、
”映画監督・黒澤明”の家で生きて行くには、強くならなければいけなかったそうです。
とはいえ、その後、結婚と離婚をし、女手1つで3人の息子を育て、ある程度の映画衣裳デザイナーの地位まで頑張れたのは、負けず嫌いのおかげだったと、今では、黒澤家で育ったことに感謝しているといいます。
「黒澤明は高峰秀子と交際していた!馴れ初めは?破局理由は?」に続く
1945年、34歳の時、女優の矢口陽子さんと結婚すると、結婚後は、子供2人にも恵まれた、黒澤明(くろさわ あきら)さんですが、実は、矢口陽子さんと結婚前の1941年、スター女優だった高峰秀子さんと交際していたといいます。 …