「七人の侍」「羅生門」「生きる」「用心棒」「天国と地獄」「影武者」など、数々の傑作を世に送り出して、”世界のクロサワ”と称され、スティーブン・スピルバーグ、ジョージ・ルーカス、フランシス・フォード・コッポラなどの巨匠にも大きな影響を与えたという、黒澤明(くろさわ あきら)さん。

そんな黒澤明さんは、若い頃は、多くの監督のもとで助監督を務めたそうですが、特に山本嘉次郎監督に師事すると、早くから脚本が絶賛されていたといいます。

黒澤明

「黒澤明の生い立ちは?幼少期は?画家時代は?政治的主張を制限され情熱を失っていた!」からの続き

Sponsored Link

黒澤明は25歳の時に「写真化学研究所(P.C.L.映画製作所)」に助監督として入所していた

画家として活動するも、20歳の時、政治的なメッセージを制限され、絵画では十分に表現できないことに疑問を感じ、絵に対する情熱を失っていったという黒澤明さんは、

その後、雑誌の挿絵を描くアルバイトなどをして生計を立てていたそうですが、

やがて、将来に不安を感じ始め、1936年、26歳の時、どこかに就職しなければならないと思っていたところ、

新聞広告で、「写真化学研究所(P.C.L.映画製作所)」(後に東宝と合併)の助監督募集を見つけ、応募すると、なんと、約500人の応募者の中から、わずか5人の採用枠に(100倍の難関を突破して)見事合格したそうで、

1936年4月、25歳の時、「P.C.L.映画製作所」に、助監督として入社したそうです。

(実は、もともと「P.C.L.映画製作所」は大学卒を採用する予定だったそうですが、黒澤明さんの絵や文学に対する理解と才能に目を留めた山本嘉次郎監督が、黒澤明さんを推薦したそうで、旧制中学(高校)卒だったにも関わらず、例外として合格したのだそうです)

黒澤明は25歳の時に矢倉茂雄監督の「処女花園」でサード助監督を務めるも仕事が嫌になり退職を考えていた

こうして、「P.C.L.映画製作所」に入社した黒澤明さんは、同年(1936年)、矢倉茂雄監督の「処女花園」でサード助監督を務めたそうですが・・・

(助監督には、ファースト、セカンド、サードと序列があったそうです)

この作品1本で仕事が嫌いになったそうで、退職を考えたといいます。

(同僚の説得により、思いとどまったのだそうです)

黒澤明は25歳の時に山本嘉次郎監督作品「エノケンの千万長者」で助監督を務めていた

それでも、次に、山本嘉次郎監督のもと、映画「エノケンの千万長者」(1936年)でサード助監督を務めると、

山本組での仕事は楽しく充実していたそうで、映画監督こそ自分のやりたい仕事だと確信し、

1941年、山本嘉次郎監督の「馬」では、B班監督と編集を担当すると、実質的に監督に近い役割を担ったそうで、さらに経験を積んだのだそうです。

(B班監督とは、監督代行のような役割のことを言うそうです)

ちなみに、山本嘉次郎監督は、助監督育成に力を入れていて面倒見が良く、黒澤明さんは、山本嘉次郎監から、脚本執筆、撮影、演出、フィルム編集、エキストラなど、映画作りで大切な様々なことを学んだそうです。

また、山本嘉次郎監督は、自分の作品を犠牲にして、黒澤明さんたちB班が撮影したフィルムを採用し、完成後、上映された作品を見ながらアドバイスしてくれたそうで、

黒澤明さんは、そんな山本嘉次郎監督を”最良の師”と仰いでいます。

(黒澤明さんは、「P.C.L.映画製作所」入社後、多くの監督のもとで働いたそうですが、特に、山本嘉次郎監督が多かったそうで、助監督として参加した24作品のうち、山本嘉次郎監督作品は17作品もあったそうです)

黒澤明は31歳の時のシナリオ「達磨寺のドイツ人」が絶賛されていた

こうして、黒澤明さんは、脚本の重要性を強調していたという山本嘉次郎監督のアドバイスでシナリオを書き始め、1941年には、「達磨寺のドイツ人」を書き上げると、

このシナリオは、映画化はされなかったものの、映画評論家の間で注目され、映画監督で脚本家の伊丹万作さんから、

特に視覚的に鮮明の印象を与えることを注目すべきである

と、絶賛されたそうで、

「達磨寺のドイツ人」
「達磨寺のドイツ人」より。

その後、黒澤明さんが書き上げたシナリオ「敵中横断三百里」は、初監督作品となるはずだったそうですが・・・

新人監督としてはスケールが大きすぎる

という理由で、実現しなかったそうです。

ちなみに、この企画を見送った、映画プロデューサーの森田信義さんは、後に、

私の一生の最大のミステーク

と、語っています。

「敵中横断三百里」
「敵中横断三百里」より。

(「敵中横断三百里」は、1957年に小国英雄さんとの共同脚本で森一生監督により映画化されています)

Sponsored Link

黒澤明は32歳の時に執筆した脚本「静かなり」「雪」が高く評価されていた

そんな黒澤明さんは、1941年、山本嘉次郎監督の「馬」以降は、実質的に助監督の仕事はしなくなり、脚本執筆に集中したそうで、

1942年に執筆した「静かなり」は、情報局国民映画脚本募集で情報局賞を受賞、「雪」は、日本映画雑誌協会の国策映画脚本募集で1位となったのでした。

「黒澤明の若い頃は?監督デビューからの代表作(映画)や経歴を時系列まとめ!」に続く

お読みいただきありがとうございました

Sponsored Link