戦前、松竹の二枚目俳優として数多くのメロドラマに出演して人気を博すと、戦後は、映画監督としても活動した、佐分利信(さぶり しん)さん。
そんな佐分利信さんは、幼い頃から本を読むことが好きで、14歳の時、中学教師を目指して、地元・北海道から上京すると、生活費と学費を稼ぐために肉体労働をしつつ通学するも、郷里に戻って小学校の代用教員になっていたそうですが、
その後、再び上京し、職を転々としている中、映画関係の仕事を志すようになり、日本映画俳優学校に入学すると、21歳の時には、学校の先輩だった小杉勇さんと八木保太郎さんの口利きで日活に入社したといいます。
今回は、佐分利信さんの、幼少期(生い立ち)から日活入社までをご紹介します。
佐分利信のプロフィール
佐分利信さんは、1909年2月12日生まれ、
北海道空知郡歌志内村(現・歌志内市)出身、
身長(公称)177cmセンチ、
血液型はA型、
学歴は、
歌志内尋常小学校卒業、
趣味は、読書、
だそうです。
佐分利信の本名は?芸名の由来は?
佐分利信さんの本名は、「石崎由雄(いしざき よしお)」で、旧芸名は「島津元」だったそうですが、
日活から松竹に移籍した際、松竹の島津保次郎監督に、
俺と同じ名前だなんてけしからん
と言われ、「佐分利信」に改名したそうです。
ちなみに、愛称は「サブリどん」で、「佐分利信」の由来は、謎の死を遂げた外交官の佐分利貞男から名付けたものではないかと言われているのですが、真偽は不明です。
佐分利信は14歳の時に中学教師を目指し上京するも郷里に戻って小学校の代用教員となっていた
佐分利信さんは、夕張炭田の歌志内鉱で働く炭鉱夫のお父さんのもと、北海道空知郡歌志内村(現在の歌志内市)で誕生すると、幼い頃から本を読むことが好きだったそうで、
1923年(佐分利信さん14歳)、歌志内尋常小学校卒業後は、中学教師を目指して上京し、学費と生活費を稼ぐため、水道工事や道路工事などの肉体労働をしつつ、正則英語学校や夜間学校に通ったそうですが、
卒業することなく郷里に戻り、小学校の代用教員となったそうです。
佐分利信は14歳の時に再び上京し職を転々としていた
また、半年後には、神戸へ行き、友人と婦人新聞を発行する計画をしたそうですが、失敗に終わったそうで、
その後、再び、上京し、東京のお兄さんの家に居候をしながら、職を転々としたそうです。
佐分利信は21歳の時に小杉勇と八木保太郎の口利きで日活に入社
そんな中、佐分利信さんは、お兄さんの家に居候しながら、映画などを観ているうちに、映画関係の仕事を志すようになったそうで、
1929年、20歳の時に、日本映画俳優学校に入学すると、1930年、21歳の時には、日本映画俳優学校の先輩だった小杉勇さんと八木保太郎さんを頼って京都に行き、2人のコネで日活に入社したそうで、現代劇技芸部(俳優部)に入ったのだそうです。
(監督部入りを希望したそうですが、俳優になるように勧められ、それに従ったのだそうです)
「【画像】佐分利信の若い頃は?映画ドラマ(出演・監督)をデビューから時系列まとめ!」に続く
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