1935年、「若旦那・春爛漫」で映画デビューすると、1938年には、田中絹代さんとダブル主演を務めた映画「愛染かつら」が大ヒットを記録し、以降、日本映画界を代表する二枚目スターとして活躍した、上原謙(うえはら けん)さん。
そんな上原謙さんは、中学生時代、お父さんが他界し、その直後に本家(鹿児島)の伯父さんも他界したそうで、本家には男子がいなかったことから、一人娘の上野菊枝さんが夫の上野篤さんと共に東京に訪ねてきて、上原謙さんを養子に迎えることで話がまとまったそうですが、
その帰り道、大事故(山陽本線特急列車脱線事故)に遭い、上野篤さんは死亡、上野菊枝さんは両足切断の重傷を負い、養子の話は立ち消えになったといいます。
今回は、上原謙さんの、生い立ち(幼少期から松竹に入社するまで)をご紹介します。
上原謙のプロフィールと家系図
上原謙さんは、1909年11月7日生まれ、
東京府東京市牛込区(現・東京都新宿区)の出身
身長は170センチ前後、
血液型はB型、
学歴は、
成城中学校・高等学校
⇒立教大学経済学部卒業
ちなみに、上原謙さんの本名は、「池端清亮(いけはた きよあき)」ですが、池端家は鹿児島で800年続く由緒ある家柄だそうで、江戸時代には薩摩藩島津家の士族で、江戸末期の安政時代には徳川第13代将軍家定の正妻となる篤姫の世話役を務めていたと言われています。
また、上原謙さんの奥さんは女優の小桜葉子さん、息子さんは俳優の加山雄三さんです。
上原謙は中学生の時に父親が他界し本家(伯父)の養子になる予定だった
上原謙さんは、職業軍人のお父さん・池端清武さんのもと誕生したそうですが、中学生の時には、お父さんが病死し、その直後に、池端家の本家(鹿児島)の当主である伯父の池端源蔵さんも亡くなったそうで、
当主・池端源蔵さんには跡取り息子がいなかったため、一人娘である上野菊枝さんが夫の上野篤さん(鹿児島市長を務めていたそうです)と鹿児島から東京まで上原謙さんを訪ねてきて、上原謙さんを池端家・本家の跡取りとして、養子に迎えることで話がまとまったそうです。
上原謙は上野菊枝夫婦が山陽本線特急列車脱線事故に遭遇したことで本家の養子話は立ち消えとなっていた
そして、上野菊枝さんと上野篤さんは、ひとまず、鹿児島へ帰る汽車に乗ったそうですが・・・
その途中、広島にさしかかったところで、激しい雨により線路が流され、深夜2時、列車が脱線して転覆するという大事故(山陽本線特急列車脱線事故)が起こり、上野篤さんは死亡、上野菊枝さんは両足切断の重傷を負ったそうで、上原謙さんの跡取りの話は立ち消えとなったのだそうです。
上原謙が高校時代は”日本一の美少年”と評判だった
その後、上原謙さんは、高校時代には、ボーイスカウトの音楽隊で指揮者をするようになったそうで、
(この時から「日本一の美少年」と評判だったといいます)
1929年、20歳の時、成城学校を卒業し、立教大学に進学すると、交響楽団に入団し、トランペット奏者として活躍したのだそうです。
上原謙は24歳の時に松竹に入社
そして、立教大学在学中の1933年には、松竹・蒲田の新人公募に、友人たちが内緒で上原謙さんの写真を送ったそうで、
上原謙さんは、その美男子ぶりから、見事、採用されると、大学卒業後の1935年、24歳の時、松竹に入社したのでした。
「【画像】上原謙の若い頃は?デビューからの出演作品や経歴を時系列まとめ!」に続く
1935年、26歳の時、「若旦那・春爛漫」で映画デビューすると、以降、二枚目俳優として活躍し、1938年、30歳の時には、「愛染かつら」が空前の大ヒットとなり、不動の人気を博した、上原謙(うえはら けん)さん。 今回は、 …