小学校6年生の時に、突然、父親が失踪し、極貧生活を余儀なくされた、藤岡弘、(ふじおか ひろし)さんですが、経済的に苦しい生活の中、唯一の楽しみだった映画鑑賞から、やがて、映画の中に憧れるようになると、上京を決意します。

「藤岡弘、の父親は小学生の時に突然失踪していた!」からの続き

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母親の制止を振り切って上京

映画が好きで、毎週土曜日には1日に4本も映画を観ていたという藤岡さんは、1964年、高校卒業後の夏には、東京へ行くことを決意。

ただ、お母さんにその旨を伝えると、お母さんからは、

地元にいれば何とかなる。大学も私が何とかする

と、止められたそうですが、

藤岡さんは、

いつまでも頼ってはいられない。自分の道は自分で行く。だから安心してくれ

と、お母さんの制止を振り切り、ジーパンにナップサック、柔道着と中古カメラ(バイトで買った唯一の宝物だったそうです)を1個と、3万円を持って、寝台車で東京へ向けて出発したそうです。

上京後は俳優養成所に通いながらアルバイトするも過酷な日々

とはいえ、当初は、あてがなく、上智大学前の土手の芝生の上で寝ると、その後は、同郷の友人の下宿に泊まらせてもらったりと、住まいを転々したそうで、

ようやく、俳優養成所に入所し、アルバイトをしながら、劇団員と狭いアパートの部屋で雑魚(ざこ)寝しながら、稽古場に通う日々を送るようになったそうですが・・・

(東京五輪の開催直前で、肉体労働の仕事はたくさんあったそうです)

愛媛なまりのある藤岡さんは、「田舎者」「大根役者」と散々バカにされたうえ、食べるものにも事欠く生活で、周囲の農家や魚屋さんに、売り物にならない収穫物をもらうほか、それでもダメなら、雀を取って食べようとしたこともあったのだそうです。

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極貧生活のなか資格をたくさん取って割のいいアルバイトをするように

そんな中でも、お父さんから叩き込まれた精神「逃げない、負けない、屈しない」で、なんとか踏ん張っていたという藤岡さんですが、

様々なアルバイトを掛け持ちし、睡眠時間を削リながらの養成所通いでは、演技の勉強に集中することができず、なかなか養成所を卒業できなかったそうで(いくつかの養成所を渡り歩いたそうです)、

やがて、藤岡さんは、睡眠時間を削ることは、芝居にもアルバイトにも両方良くないと、効率よく稼げる方法を考えるようになったのだそうです。

その結果、割のいいアルバイトをするには、資格が必要と、調理師免許や大型免許など、資格をたくさん取ると、アルバイトの時間が短くできたことから、残りの時間を演劇の勉強に充てることができ、十分、力を備えることができるようになったのだそうです。

「藤岡弘、が若い頃は「アンコ椿は恋の花」で映画デビュー!」に続く

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