お母さんが妊娠中、鋭い直感により、入院していた病院から退院し、翌日の大空襲による病院全滅から免れ、奇跡的に誕生することができたという、藤岡弘、(ふじおか ひろし)さんですが、幼少期も、何度も生死の境をさまよいながら、生還していたといいます。
「藤岡弘、なぜ「、」?改名の理由は?」からの続き
幼少期は何度も生死の境から生還していた
藤岡さんは、家伝の古武道「藤岡流」を継承する武道家で警察官だったお父さんと、茶道や華道、琴の師範だったお母さんのもと、2人兄弟の次男として、終戦後に、明神(みょうじん)村というところの駐在所で誕生したそうですが、
(明神村は、お父さんの赴任先で、四国八十八箇所を巡礼するお遍路の44番目に当たる愛媛県大寶寺(だいほうじ)のある村だったそうです)
幼い頃は体が弱く、何度も生死の境をさまよったそうで、3歳の時には、肺炎になって病院から見放され、遺影が用意された中、お母さんの献身的な看護により、一命をとりとめたほか、
愛媛県西条市に暮らす母方のおじいちゃんが危篤になった際にも、藤岡さんは肺炎にかかっていたそうですが、雪が降り積もる中、お母さんに抱かれて、なんとか、おじいちゃんの臨終に間に合うと、
おじいちゃんは、臨終の際、藤岡さんの手を握りながら、
おまえの病気を(あの世に)持って行ってやるから、親を助けてやれ
と言って、亡くなったそうで、
その後、不思議なことに、藤岡さんはみるみるうちに回復。この時も、藤岡さんは、奇跡的に一命をとりとめたそうです。
父親から武士道精神を教えられ病弱を克服していた
そんな藤岡さんは、小学校に行くようになっても、線が細く、引っ込み思案で恥ずかしがり屋な子供だったそうですが、病弱な息子を心配したお父さんに、
どのような状況になっても生き抜く力をお前に与える。そのためには、どのような矛盾、疑問があっても、お父さんの言うことを聞け
と、武道の基礎や武士道精神を教えられ、
逃げるな
負けるな
屈するな
諦めるな
と、何度も言われて修練に励むと、見事、病弱を克服したのだそうです。
(当時の藤岡さんには、このお父さんの教えが理解できなかったそうですが、理不尽な中でも生き抜く力を叩き込んでくれたのだと、今では理解しているそうです)
忘れられない両親の教えとは
また、村では、米、芋、とうもろこしほか季節の食べ物を、お遍路さんに「お接待」として施していたそうで、藤岡家も同様に、「お接待」をしていたそうですが、
お父さんからは、藤岡家の裏にあった柿の木を指し、
上の柿は鳥さんが食べる。下の柿は動物さんが、落ちた柿は虫さんが食べる。真ん中の柿をとりなさい
と、みんなが一緒に生きていることを教えられたほか、柿を二つとって、良い方をお遍路さんにあげることも教えられたほか、
藤岡さんが朝起きて学校に行こうとすると、度々、玄関に野菜や果物が置いてあったそうですが、これは、お母さんが、村の娘さん達にお花やお茶や裁縫等を教え、柔道師範だったお父さんが、若者達に柔道や相撲などの武道を教えていたことから、村の人たちが感謝のしるしとして、自分達で作った野菜を玄関に置いていってくれたものだったそうで、そんな環境の中、藤岡さんはすくすくと育ったのだそうです。
(お父さんとお母さんは、その野菜を見れば、誰が置いていってくれたのか、すぐ分かったそうです)