幼少期から歌舞伎役者を目指して稽古に明け暮れる日々を送り、戦時中は、お母さんや妹たちとの疎開を拒んでまで、歌舞伎に打ち込んできた、萬屋錦之介(よろずや きんのすけ)さんですが、なかなか良い役は回ってこなかったといいます。そんな時・・・

「萬屋錦之介と東千代之介は昔は教師と生徒の関係だった!」からの続き

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女形の歌舞伎役者として頭角を表すも・・・

終戦後、歌舞伎の稽古を再開された萬屋さんは、20歳前後の頃は、父・三代目中村時蔵譲りの女形で頭角を表し、三越劇場で行われた若手歌舞伎「鏡山」ではお初、舞踏「たけくらべ」ではみどり役を演じて話題となるのですが、

すでに二人のお兄さんが歌舞伎役者として成功していたため、萬屋さんにはなかなか良い役は回ってこなかったそうです。

美空ひばり主演の映画に出演を打診される

そんな中、1953年11月半ば、「歌舞伎座」の楽屋に、雑誌「花道(はなみち)」の記者・本間昭三郎さんが萬屋さんを訪ねて来て、

美空ひばり主演の今度の映画で相手役を探しているのだけれど、ひばりのプロダクションの社長に一度会ってみませんか

と、思いがけない話を持ちかけてきたそうです。

(本間さんは、大の芝居好きで歌舞伎役者たちの取材をしており、萬屋さんの叔父・初代中村吉右衛門さんや、お父さんの三代目中村時蔵さんにもインタビューをしたことがあったそうで、その際、二人から好感を持たれたことが縁で、「播磨屋」一門とも知り合いとなり、同世代の若い歌舞伎役者とも友達になっていたため、萬屋さんともその半年ほど前から知り合いだったそうです。)

※「播磨屋」とは、萬屋さんのお父さんの三代目中村時蔵さんや叔父・初代中村吉右衛門さんら小川家(本名)一門の屋号で、1971年には「萬屋」に改められています。

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歌舞伎界で美空ひばりは蔑視されていた

ただ、当時、すでにスター子役として活躍されていた美空ひばりさんは、その一年半ほど前に、「歌舞伎座」で2日間公演したことがあったのですが、

当時の歌舞伎界では、美空さんへの蔑視があったことから、歌舞伎役者たちの間では、「歌舞伎座」の舞台を汚されたと思う者が大勢おり、「舞台の板を削れ」と言う者さえいたそうです。

一方、萬屋さんはというと、美空さんに会ったことはなく、名前を知っている程度で、それほど目くじらをたてて怒るほどのことでもないと、特に美空さんに対して関心はなかったそうです。

そのため、美空さんの相手役の候補として、自分の名前が上がったことに驚きつつも、「新芸術プロダクション」の福島通人(ふくしま つうじん)社長に、会うだけ会ってみようと思い、本間さんにその旨を伝えたのでした。

ちなみに、美空さんの主演映画「ひよどり草紙」の企画はすでに、製作開始の一歩手前まで進んでいたそうですが、美空さんの相手役だけがまだ決まっておらず、

本間さんは、「松竹」演劇部のある人から、福島社長と引き合わされ、美空さんの相手役として、歌舞伎の名門の御曹司で20歳前後の容姿の良い若手俳優を探し、映画に出演するかどうか打診してほしいと依頼されていたそうで、そこで、萬屋さんを思い出し、萬屋さんにオファーされたのだそうです。

「萬屋錦之介は歌舞伎役者ながら映画出演に憧れていた?」に続く

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