過激なライブ活動でライブハウスを出禁になるほか、お笑い番組に出て、ロック界からは総スカンを食らった、YOSHIKIさんら「X」ですが、この後、「X」の快進撃が始まります。

「YOSHIKIの若い頃はライブハウス出禁?天才たけし出演で総スカンも!」からの続き

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「Vanishing Vision」「BLUE BLOOD」が大ヒット

当時のロック界のタブーを無視し、総スカンを食らっていたYOSHIKIさんら「X」ですが、1988年4月、「エクスタシーレコード」より、ファースト・アルバムVANISHING VISIONをリリースすると、初回プレスで1万枚以上を売上げ、オリコン週間チャートで最高19位を記録して、当時のインディーズでは記録的なセールスを達成。

(当時のインディーズレーベルの作品がメジャーチャートにランクインしたのはこれが初めてでした)

翌年の1989年4月21日には、2作目のアルバム「BLUE BLOOD」でメジャー・デビューを果たすと、デビューアルバムでありながら、86万枚を売り上げる大ヒット。


BLUE BLOOD

そして、同年9月には、「BLUE BLOOD」の中の曲「紅」をシングル・カットすると、音楽番組にも積極的に出演し、ヴィジュアル系バンドとして、その奇抜なスタイルが多くの人々に強烈なインパクト与えたのでした。

また、年末には、「日本有線大賞」の最優秀新人賞、「全日本有線放送大賞」の最優秀新人賞、「第4回日本ゴールドディスク大賞」の最優秀新人賞など、次々と映えある賞を受賞。

こうして、「X」はその過激なパフォーマンスと激しくも美しい楽曲で、瞬く間にトップミュージシャンの座へと駆け上ったのでした。

「Vanishing Vision」は母親から借金して製作

ちなみに、「Vanishing Vision」は、メジャーレーベルから発売される可能性もあったそうですが、
YOSHIKIさんが、

インディーズでまだ何も残していない

と考え、あえて、インディーズの「エクスタシーレコード」からリリースしたそうです。

ただ、自費でアルバムを製作するには1000万円の資金が必要で、まだインディーズバンドだったYOSHIKIさんたちにそんな大金はなく、それでもあきらめきれなかったYOSHIKIさんは、お母さんに1000万円を借りて、製作・リリースしたのだそうです。

CBSソニーとの契約は反骨精神から

また、「Vanishing Vision」リリース後は、同時に、数社とのメジャーレーベルとの契約交渉をすすめ、最終的には、CBSソニーと契約されているのですが、

交渉にあたったCBSソニーのディレクター達の態度があまりに横柄で、

絶対に売れてこいつらを見返してやる

との、反骨精神から、契約金や契約期間などの条件が他のどの会社よりも低かった、CBSソニーと契約したのだとか。

(メンバーたちは怒り心頭だったため、交渉は冷静な対応ができるYOSHIKIさんが担当したそうです)

そして、その結果、前述のとおり、CBSソニーからリリースした「BLUE BLOOD」は大ヒットとなり、見事、見返すことができたのでした。

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「Jealousy」がオリコンチャート1位に

その後も「X」の快進撃は続き、1991年7月にリリースした3枚目のアルバム「Jealousy」はオリコンチャート1位を記録。


Jealousy

翌8月に開催されたコンサートツアー「Violence In Jealousy Tour 1991~夢の中にだけ生きて~」では、初の東京ドーム公演を果たすほか、

同時期、新宿の小田急ミロードに「X SHOP JEALOUSIX」を期間限定で出店すると、日清食品から「カップヌードルX味」が発売され、大きな話題に。

また、12月8日にNHKホールで「X with Orchestra」を開催すると、同年12月31日には、「第42回NHK紅白歌合戦」にも出演。

そして、年が明けた1992年1月5日、6日、7日には、日本人アーティストとして初となる東京ドーム3日間連続公演「破滅に向かって」を開催すると、観客動員数15万人を達成。

「X」の人気は絶頂期を迎えたのでした。

「YOSHIKIがTAIJIを解雇!Toshl脱退の真相は喉への注射?」に続く

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