医師になるため、東京医科大学と奈良医科大学を受験するも不合格となり、今度は建築家を目指して、千葉工業大学に進学するも、授業が身に入らず、いつしかバイクを乗り回すようになっていた、舘ひろし(たち ひろし)さん。しかし、ここで、舘さんの人生に大きく関わる出会いがありました。

「舘ひろしの生い立ちは?お金持ちのお坊ちゃんだった!」からの続き

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岩城滉一との出会い

医学部をあきらめ、建築家を目指して千葉工業大学工学部建築学科に進学するも、建築以外の授業がつまらなくなり、いつしか、バイクを乗り回すようなった舘さんは、大学在学中に、バイク好きの仲間と一緒にバイクチームを結成されます。

すると、舘さんは、1974年のある日、都内の飲食店で、別のバイクチームを組んでいた岩城滉一さんと鉢合わせしたそうで、お互い眼光の鋭い者同士、一触即発の雰囲気になったそうですが、

一瞬、身構えた岩城さんに、舘さんが、

あのバイク、きみたちの?

と、店の外に見知らぬ黒いバイクがズラッと並んでいるのを観ながら話しかけると、二人は、バイクの話題で意気投合したそうで、

同年12月、

少数精鋭で面白いチームを作ろう

と、原宿を拠点に、舘さんをリーダー、岩城さんをサブリーダーとする、バイクチーム「クールス」を結成されます。

「クールス」の黒は「オールブラックス」の黒

ところで、「クールス」のトレードマークといえば、「黒い革ジャン・黒いジーンズ・リーゼントヘア・黒いバイク」なのですが、このスタイルを作ったのは、リーダーである舘さんだったそうです。

というのも、舘さんは、高校時代、ラグビー部の主将を務めており、ニュージーランドのラグビー代表「オールブラックス」のファンだったことから、「オールブラックス」の黒いユニフォームを真似て、このスタイルで統一し、東京都内を乗り回したのだそうです。

ちなみに、元メンバーでミュージシャンの水口晴幸さんは、

“縁起の悪い日がいい”と言って、12月13日の金曜日、東京・青山にあったハンバーガー店に集まってチームを結成してね。《このチームはリーダー(舘)の独裁により運営される》と書かれた血判状に、メンバー17人がナイフを握って右手中指に傷を入れ、血判を押したんだよ

おれらが走ると他の暴走族もバイクで集まってきて一緒に流すんだよ。そのうちパトカーも追っかけてきて、そしたら蜘蛛の子を散らすように逃げる。表参道に歩行者天国ができたのは、おれたちのせいだっていわれてたね

と、語っておられます。

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バイクは無免許で運転していた

そんな舘さんは、なんとバイクの免許を持たず(無免許で)運転していたのだそうです。

(その後、岩城さんに勧められ、岩城さんのバイクで二人乗りをして教習所に通い、免許を取得したそうです)

また、大学生だったたため、当時、20万円もするバイクを購入するのに、教科書を買うと言って両親に嘘をつき、両親の「大学だけは卒業してほしい」との願いも裏切り、大学を中退するなど、やりたい放題だったそうで、

舘さんは後にそんな自分を振り返り、

僕っていつも、目の前の楽しみに心がいっちゃうんだよね。刹那(せつな)主義というか、快楽主義というのか、根性や我慢ってのは嫌なんだよ

本当に駄目な男だね

と、おっしゃっていました♪

(ちなみに、舘さんのお母さんは、その後10年間も学費を払い続けていたそうで、舘さんが大学を中退したのは、実は30歳を過ぎてからだったそうです)

「舘ひろしは昔矢沢永吉のキャロルの親衛隊だった!」に続く

「クールス」(中央が舘さん)

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