お父さんに武士道精神で厳しく鍛えられ、病弱を克服したという、藤岡弘、(ふじおか ひろし)さんですが、そのお父さんが、小学校6年生の時、突然、家族を捨てて失踪。そのため生活は一転極貧となったそうですが、約20年後、その理由を知り、納得したといいます。

「藤岡弘、の生い立ちは?幼少期は病弱も武士道精神で克服していた!」からの続き

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小学6年生の時に父親が突然失踪

厳しくも思いやりの深い両親のもと、すくすくと育った藤岡さんですが、1957年、小学校6年生の時、突然、お父さんが失踪。すると、その日から、生活は一転したそうで、

お母さんが苦労しながら、女手一つで藤岡さんとお兄さんを育ててくれたそうですが、3度の食事にも事欠くほど生活は苦しく、学校に給食費すら納められないほどの極貧で、まだ小学生だった藤岡さんも、アルバイトをして苦しい家計を支えたそうです。

父親が失踪した理由とは?

そのため、藤岡さんは、ずっと、お父さんを許すことができないでいたそうですが、1980年、34歳の時、お父さんから、突然、電話があり、

お前には財産も何も残してやれなかったが、地位や名誉という財産は他人に奪われることはあっても、『生き方』という財産は決して奪われない。だから、お前も誇りを持って生きなさい

と、静かな口調で言われたそうです。

ただ、その時は、あまりにも突然のことだったため、お父さんの言葉を理解しようとは思わなかったそうですが、その数日後、お父さんが他界したこと、お父さんがなぜ失踪したのかということを、お父さんの知人によって知らされると、お父さんに対する不信感はみるみるうちに溶けていったのだそうです。

(藤岡さんは、お父さんの失踪の理由について、幼少期からお父さんによく聞かされていた「この国のために生きたい」との思いに決して恥じないことだった、とだけ明かしています。)

高校時代は柔道と映画

さておき、藤岡さんは成長し、1961年には、高校(松山聖陵高等学校)に進学すると、柔道部に入部し、主将を2年間務めたそうですが、

そんなかたわら、映画に出会い、その魅力に取り憑かれると、毎週土曜日の夕方には、松山市の銀天街や道後にあった映画館に行き、映画を4本観て翌朝に帰ってきていたそうで、それが、唯一の娯楽であり、とても楽しかったそうです。

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高校生のとき映画界に憧れるように

そんな藤岡さんは、東映の時代劇、フロンティアスピリッツあふれるハリウッドの西部劇、伝統を受け継いだヨーロッパのアート的な映画など、様々な映画を観るうちに、世界が広がり、刺激を受けたそうで、

やがて、

今のこの環境にいてはダメだ、もっと夢を持ち挑戦しないと埋もれてしまう

と、思うようになり、

映像の中に映し出される東京か京都に行きたい、もっと視野を広げたい、自分も演じてみたいと、夢を追いかけるようになっていったのだそうです。

(ちなみに、藤岡さんは、お母さんが苦労して自分とお兄さんを育ててくれていたことから、自分のことは自分でやろうと、映画を観るためのお金は、三越で配達のバイト、みかんの缶詰工場で出荷の手伝い、稲刈り、道後公園で花見客を相手に飲食物を売る店の手伝い、野球場での物売り、松山空港から街までの電話線の配管工事など、いろいろなアルバイトで賄(まかな)っていたそうで、その頃辺りから、自立心も芽生えてきたのだそうです。)

「藤岡弘、が若い頃は俳優養成所に通いながら過酷な日々を送っていた!」に続く

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