田村三兄弟の中でも父親・阪東妻三郎さんの品格を一番受け継いでいると言われ、その演技に定評があった、田村高廣(たむら たかひろ)さん。ただ、デビュー当時は、「2世」であることを嫌うが故に、なかなか日の目を見ませんでした。

「田村高廣の父親はバンツマ!兄弟は田村正和と田村亮の他にも!」からの続き

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貿易会社に就職していた

田村さんは、戦前からの映画スター・阪東妻三郎さんの長男として、京都の太秦(うずまさ)で誕生するのですが、映画に囲まれた環境にありながら、俳優に興味を示すことはなく、ましてや、お父さんの跡を継ぐ気もなく育ったそうです。

また、田村さんは、秀才だったことから同志社大学に進学し、大学卒業後の1952年には貿易会社に就職。堅実な日々を送られていたそうです。

(合格された時は、小学校の先生が田村さんに挨拶に来られたそうで、現在の合格とは格が違っていたそうです)

父バンツマの急死で映画界へ

しかし、翌年の1953年7月7日、お父さんが「脳出血」で突然他界されると、田村さんは、近親者や木下恵介監督ら映画関係者に強く芸能界入りを勧められるようになり、

乗り気ではなかったものの、お父さんが遺した借金を返済するため、最終的には、お父さんが最後に所属していた「松竹」に入社したのでした。

(借金は、それから20数年後に完済されたそうです)

「女の園」で俳優デビュー

そして、1954年には、木下監督の映画「女の園」で俳優デビューすると、その後も、「二十四の瞳」(1954)など、木下監督作品に出演するのですが、

当時、人気を博していた、「松竹」の二枚目スターである、佐田啓二さん、高橋貞二さんらとは違い、地味なタイプだったため、しばらくは脇役として出演。


「女の園」より。田村さんと岸惠子さん。

もともと、松竹は、「バンツマ2世」として田村さんを時代劇スターに育てようとしていたのですが、

石橋を叩いて、渡らず引き返す

と、自身で言うほど慎重な性格だった田村さんは、「バンツマ2世」と呼ばれることを嫌って、なかなか時代劇には出演しようとはせず、

1956年、ようやく「京洛五人男」で時代劇に出演するようになるものの、ヒットとはならなかったのでした。


「京洛五人男」より。

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映画「兵隊やくざ」で人気を博す

その後も、田村さんは、木下監督の、「笛吹川」(1960)、「背徳のメス」(1961)、「山河あり」(1962)で主演を務められるのですが、やがて、脇役が多くなり、1963年には、「松竹」を退社しフリーに。

ただ、1965年、映画「兵隊やくざ」で、主人公・大宮(勝新太郎さん)と友情で結ばれるインテリの有田上等兵役を演じると、軍隊の理不尽さに反骨精神をあらわにするお二人のコンビが注目を集め、映画はヒット。


映画「兵隊やくざ」より。勝新太郎さん(左)と田村さん(右)。

その後、この映画は、

「続・兵隊やくざ」 (1965年)
「新・兵隊やくざ」(1966年)
「兵隊やくざ 脱獄」(1966年)
「兵隊やくざ 大脱走」(1966年)
「兵隊やくざ 俺にまかせろ」(1967年)
「兵隊やくざ 殴り込み」(1967年)
「兵隊やくざ 強奪」(1968年)
「新兵隊やくざ 火線」(1972年)

と、シリーズ化され、田村さんは、一躍人気を博したのでした。

ちなみに、田村さんは、この第1作の演技で「ブルーリボン賞助演男優賞」に輝いているのですが、後に、

俳優としてやっと自由になれた

と、語っておられました。

「田村高廣のデビューからの出演ドラマ映画を画像で!」に続く

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