1952年、早稲田大学1年生の時、三木鶏郎さんの事務所「トリロー文芸部」のスタッフとして正式に採用されると、その後、有限会社「冗談工房」の社長にまで指名されたという、永六輔(えい ろくすけ)さんは、三木さんからは様々な仕事を任せてもらったそうで、その中には、ディズニー映画の日本語版制作もあったといいます。

「永六輔は三木鶏郎の会社「冗談工房」の社長を務めていた!」からの続き

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有限会社「冗談工房」は新しい時代を作ろうという活気に溢れていた

1956年4月に、有限会社「冗談工房」を設立すると、永さんを社長に指名するほか、スタッフを20代の若い人たちに任せたという三木鶏郎さんは、永さんたちのために、東京・市ヶ谷の自宅の敷地に事務所を作るほか、

(永さんたちは、その事務所に寝泊まりし、お腹が空くと、近所の蕎麦屋に行っていたそうですが、三木さんは、蕎麦代も支払ってくれたそうです)

近くの旅館の大広間を貸し切って、毎週、コントの選考会を開いてくれたそうで、誰でも入門でき、面白いコントであれば採用されていたことから、いつも20人近い若者がそれぞれの作品を持ち寄って集まったそうで、いろいろなタイプの学生が集まり、その中には、作家の五木寛之さんや井上ひさしさんもいたそうです。

(コント作家を養成するため、各大学にポスターを貼り、コントに興味のある学生を募集するなど、新しい時代を作るという活気に溢れていたそうです)

三木鶏郎により様々な経験をさせてもらっていた

また、三木さんは、翌年の1954年には、赤坂に「音楽工房」というグループも設立したそうで、音楽コンクールなどで優勝した若者に、「ゼヒ、オメニカカリタシ」という電報を打ち、面談した後、採用していたそうですが、

若者を助手などで使い捨てにするのではなく、むしろ、若い感性に刺激を受け、吸収したい、と考えていたそうで、永さんたち若者にもどんどん仕事を紹介してくれたそうです。

(そのほか、実業家の渋沢秀雄氏や昭和天皇の侍従長の入江相政氏などの大物が出席するような重要な会議にも出席させてくれたそうで、様々な経験をさせてもらったそうです)

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ディズニー映画の日本語版の制作に携わる

こうして、数々の番組の制作や構成を手掛けるようになった永さんは、放送作家として引っ張りだことになり、1954年、21歳の時には、毎日2本ずつ放送台本を書くようになったそうで、日本テレビだけでも週に10本も書いたことがあったそうですが、1957年、24歳の時には、ディズニー映画の日本語版制作に携わったそうです。

実は、三木さんは、日本で初めてディズニー映画の仕事をした人だったそうで、終戦後、日本でもディズニー映画が公開されるようになると、三木さんが日本版の音楽や訳詞を担当したそうで、

まず、最初に「白雪姫」が公開されると、この全編カラー、映画史上初のアニメーションは、子供だけでなく、大人も驚き、ディズニーの最先端の技法が評判になり、以降、「バンビ」「ピノキオ」「ダンボ」「わんわん物語」が次々と日本で公開されたそうですが、永さんも、三木さんに誘われ、「ダンボ」から携わったのだそうです。

ただ、凝り性の三木さんは、なかなか納得してくれず、何度もやり直しさせられたそうで、ついには、最後まで、その出来栄えに満足していなかったそうですが、周囲から褒められ、時間切れも重なって、公開されると、娯楽に飢えていた日本の子供たちの間で大変な人気を博したのだそうです。

(ちなみに、この「ダンボ」のコーラスには、永さんも駆り出されたそうです(笑))

「永六輔は「わんわん物語」の出演交渉を国会議員の浅沼稲次郎にもしていた!」に続く

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