現在、「世界のオズ」として国際的に高く評価されている、小津安二郎(おづ やすじろう)さんですが、実は、日本での評価は、長い間、散々だったようです。
「小津安二郎監督と原節子の関係は?東京物語ほか作品は?」からの続き
日本国内の評価は「退屈な映画」と散々だった
小津さんの作品は、映画評論家からの評価は高かったものの、一般的な評価はそれほど高くなく、小津さんが所属されていた「松竹大船撮影所」の若手スタッフでさえ、
いつも同じような映画を作る老成した巨匠
くらいにしか考えていなかった人も多かったそうです。
(戦後は、日本的な伝統美ばかりを撮っていたため、社会問題に背を向けていると批判を浴びたこともあったようです)
しかも、映画監督である山田洋次さんでさえも、黒澤明さんの作品は評価されるも、小津さんの作品に対しては、
いつも同じような話ばかりで何も起きないではないか
と、批判されていたのだそうです。
フランスを中心に海外から高評価
このように、小津さんは、長い間、日本での評価はあまり高くなかったのですが、1960年代に入り、「東京物語」(1953年)が海外の映画祭で初めて上映されると、
小津さんの死後、1963年には、フランスを中心に国際的に評価が高まり、アッバス・キアロスタミ(イラン)、ヴィム・ベンダース(ドイツ)、侯孝賢(台湾)といった、海外の映画監督、著名な映画人が次々に小津作品への敬愛を口にするようになります。
すると、これを受け、日本でも、蓮実重彦さんらが精力的に小津さんの再評価に努められ、日本でも小津さんが認められるようになったのでした。
ちなみに、ヴィム・ベンダース監督は、小津さんの作品を見ることで、自身の映画的世界を築かれたそうで、
形式的厳密さを好む作家がその好みを徹底させた場合、逆に驚くべき自然に達し、ほとんど生なましいドキュメンタリーであるかのように思われてしまうことがある。
と、「東京物語」を絶賛されています。
「東京物語」より。原さんと笠智衆さん
また、この「東京物語」は、1958年には、ロンドン国立映画劇場で行われた日本映画特集で、「英国サザーランド賞」を受賞されるほか、2012年には、英国映画協会による「監督が選んだ映画史上最高の作品ベストテン」においてベストワンに選出されています。
(「東京物語」は、構図、色彩、セリフ、伝統がすべて計算し尽くされており、特に、低位置にカメラを固定して、人々が通り過ぎるシーンは、小津さんの真骨頂と言われているほか、画面の中に「赤」「美術品」をいれるなど、美しさへのこだわりも見せた作品となっています)
死因はガン
そんな小津さんは、1963年、NHKのテレビドラマ用のシナリオ「青春放課後」を初めてテレビ用に書き下ろされると、その後、体調に異変を感じ、病院で検査を受けたところ、「悪性腫」が発覚。
同年4月、ガンセンターで手術を受けられると、手術は無事成功し、その後、コバルトとラジウムの針を首すじの患部に刺すという放射線治療を受けられます。
その後、治療の甲斐あってか、背広を2着作ろうと、洋服屋さんに採寸させるまでに回復され(翌日には、「秋になったら、またどんなスタイルが流行るかわからんしな」と取り消されたそうです)、退院されるのですが、同年10月、再び体調を崩し、東京医科歯科大学医学部附属病院に再入院。
それでも、11月4日には、佐田啓二さんが娘の貴恵子さんを連れてお見舞いに訪れると、貴恵子さんと二人で「スーダラ節」を歌い、
11月9日には、吉田喜重さんが婚約したばかりの岡田茉莉子さんを連れて挨拶にこられると、
岡田さんに、
お嬢さんには、親子二代、世話になった
と言い、
吉田さんに対しては、
映画はドラマだ、アクシデントではない
と二度繰り返されたそうですが・・・
同年12月12日(自身の還暦の誕生日)午後12時40分、「腮源性癌腫」で60歳で他界されたのでした。
(死後には、「勲四等旭日小綬章」が追贈されています。 )
ちなみに、小津さんは、戦後、ずっと、お母さんと千葉県野田市で二人暮らしておられ、仕事が忙しくなり、一時期は、大船撮影所本館の個室に寝泊まりされるも、
1952年に、大船撮影所で火災があると、同年5月から、お母さんを連れて鎌倉・山之内に転居し、1961年にお母さんが亡くなるまで、ここでお母さんと二人暮らしされていたそうです。
さて、いかがでしたでしょうか。
小津さんの、
- 年齢は?出身は?身長は?本名は?
- 両親は伊勢商人
- 幼少期から芸術家の片鱗
- 中学時代は映画漬けの日々
- 受験に失敗し教員となるも・・
- 松竹蒲田撮影所で下積み
- 関東大震災
- 時代劇「懺悔の刃」でデビュー
- 「小市民映画」の第一人者として高い評価を得る
- 戦争体験
- 「戸田家の兄妹」が初のヒット
- シンガポールでアメリカ映画を多数鑑賞
- 戦後は母親と同居
- 唯一の暴力シーンが描かれた「風の中の牝雞」
- 原節子を初めて迎えた作品「晩春」で独自のスタイルを確立
- 「麦秋」「東京物語」「彼岸花」などで名監督の地位を確立
- 監督作品(「晩春」以降)
- 嫁は?原節子との関係は?
- 日本国内の評価は「退屈な映画」と散々だった
- フランスを中心に海外から高評価
- 死因はガン
について、まとめてみました。
晩年には、「社会性がない」との批判に対し、
私は豆腐屋のような映画監督なのだから、トンカツを作れといわれても無理で、せいぜいガンモドキぐらいだよ
社会性がないといけないと言う人がいる。人間を描けば社会が出てくるのに、テーマにも社会性を要求するのは性急すぎるんじゃないか。ぼくのテーマは「ものの哀れ」という極めて日本人的なもので、日本人を描いているからにはこれでいいと思う。
映画には、文法がないのだと思う。これでなければならないという型はない。優れた映画が出てくれば、それが独得の文法を作ることになるのだから、映画は思いのままに撮ればいいのだ。
と、反論されていた小津さん。
殺伐とした昨今だからこそ、小津さんの美しい作品をご覧になって、癒やされてみてはいかがでしょう。