「晩春」「麦秋」「東京物語」「彼岸花」「秋日和」など、徹底的に作り込まれた完成度の高い作品を次々と発表し、名監督の地位を確立された、小津安二郎(おづ やすじろう)さん。今回は、そんな小津さんが初めて原節子さんを迎え、独自のスタイルを確立した「晩春」以降の監督作品を画像を交えてご紹介します。

「小津安二郎監督の唯一暴力シーンがある映画とは?」からの続き

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原節子を初めて迎えた作品「晩春」で独自のスタイルを確立

1948年に発表した、敗戦後の生活をリアルに描いた「風の中の牝雞」では、小津作品中、唯一の暴力シーンがあるなど、あまり評判がよくなかった小津さんですが、

1949年には、原節子さんを初めて迎え、なかなか結婚しようとしない娘を心の底から案じる父親と、自分が結婚すれば父親が一人ぼっちになってしまうと心配する娘の姿を描いた「晩春」を発表すると、


「晩春」より。原節子さんと笠智衆さん

映画評論家の佐藤忠男さんいわく、

世界に類のない小津の厳格で独創的な技法は「晩春」で完璧の域に達し、以後、一作ごとにさらに磨きが加えられていくことになる。

と、独自のスタイルを打ち立てられ、

1950年の「宗方姉妹」では、「第24回キネマ旬報ベスト・テン 日本映画ベスト・テン」第7位、

1951年の「麦秋」では、「芸術祭文部大臣賞」「ブルーリボン賞監督賞」など受賞され、名監督の地位を確立。

以降、一年に一作のペースで作品を発表されるようになります。

「麦秋」「東京物語」「彼岸花」などで名監督の地位を確立

そして、1952年には、戦前に検閲ではねられた「彼氏南京に行く」を改稿した作品「お茶漬の味」を発表されるのですが、

小津さんにとって、この作品は、

なんとか一年一作を守るために糊塗したもので後味が悪い

と、納得の行くものではなかったようで、

翌年の1953年、この時のシナリオをもう一度練り直し、原節子さんと笠智衆さんをメインに据え、家族のあり方を問うた作品「東京物語」を発表されると、2度目の「芸術祭文部大臣賞」を受賞。


「東京物語」より。原さんと笠智衆さん

また、1958年には、ロンドン国立映画劇場で行われた日本映画特集で、「東京物語」「英国サザーランド賞」を受賞されるほか、初のカラー作品「彼岸花」が、「キネマ旬報ベストテン」第3位、3度目の「芸術祭文部大臣賞」を受賞し、これらの功績により、「紫綬褒章」を受章。

1959年には、映画人としては初めて「日本芸術院賞」を受賞されたのでした。


「彼岸花」より。(左から)田中絹代さん、有馬稲子さん、佐分利信さん

監督作品(「晩春」以降)

それでは、ここで、一年一作ペースになってからの、小津さんの監督品をご紹介しましょう。

1949年「晩春」
1950年「宗方姉妹」
1951年「麦秋」
1952年「お茶漬の味」
1953年「東京物語」


「麦秋」より。原節子さん(左)と三宅邦子さん(右)。

1956年「早春」
1957年「東京暮色」
1958年「彼岸花」
1959年「お早よう」
     「浮草」

1960年「秋日和」
1961年「小早川家の秋」
1962年「秋刀魚の味」


「秋刀魚の味」より。岩下志麻さんと笠智衆さん。

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嫁は?原節子との関係は?

ところで、小津さんは、1949年「晩春」で、初めて原節子さんを主演に起用して以来、その後も、

1951年「麦秋」
1953年「東京物語」
1957年「東京暮色」
1960年「秋日和」
1961年「小早川家の秋」


「秋日和」より。原節子さんと笠智衆さん

と、原さんをメインキャストに据えられているのですが、

小津さんの通夜では、原さんが小津さんの自宅玄関先で号泣されたほか、小津さんが他界された後、原さんは、女優業をひっそりと引退し、以降、公の場に姿を見せていないことから、小津さんと原さんはずっとロマンスが囁かれていました。

ただ、近年になり、お二人のロマンスは、当時のマスコミとファンが作り上げた昭和のメルヘンであり、小津さん自身も、映画の宣伝にと、原さんとのロマンスをゴシップとして利用していた、とも考えられているようです。

(原さんが本当に好きだった人は、実のお姉さんのご主人で、映画監督だった熊谷久虎さんだったとも言われています)

とはいえ、小津さんの日記には、

このところ、原節子との結婚の噂ときりなり

原に酔余(酔って)電話する

などと、原さんのことを日記に綴られているので、もしかすると、まんざらでもなかったのかもしれません。

(小津さんは、一度も結婚されず、生涯独身でした)

「小津安二郎監督作品の海外の反応は?国内評価は長らく散々だった?」に続く

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