「男はつらいよ」シリーズ、「息子」「母べえ」「母と暮せば」など、家族を通し、人の温かさを描いた作品を数多く発表し、日本のみならず、海外でも高い評価を受けている、山田洋次(やまだ ようじ)さん。

そんな山田洋次さんは、幼少期は、お父さんの仕事の都合で、一家で満洲に渡り、何不自由なく育ったそうですが、その後、一旦、日本へ帰国し、太平洋戦争中(11歳の時)、空襲を避けるため、再び満洲に移り住むと、まもなく日本が敗戦したことから、侵攻してきたソ連軍の将校に家を追い出されてしまい、一家で狭いところで暮らすことを余儀なくされたといいます。

今回は、山田洋次さんの、生い立ち(幼少期から松竹入社まで)をご紹介します。

山田洋次

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山田洋次のプロフィール

山田洋次さんは、1931年9月13日生まれ、
大阪府豊中市の出身、

学歴は、
東京都大田区池雪小学校
⇒東京都立第八中学校(現・東京都立小山台高等学校)
⇒満洲国の旧制大連第一中学校
⇒旧制宇部中学校(山口県立宇部高等学校)3年に編入
⇒四修の飛び級で旧制山口高等学校(現・山口大学)(学制改革に伴い1年で卒業)
⇒東京大学法学部卒業

ちなみに、「山田洋次」は本名ですが、「山田よしお」名義を使用していたこともあったようです。

山田洋次は2歳の時に父親の仕事の都合で満洲に移り住んでいた

山田洋次さんは、大阪にあった汽車製造会社で蒸気機関車の設計をしていた技術者のお父さん・正さんとお母さんの寛子さんのもと誕生すると、2歳の時に、お父さんの仕事の都合で、一家で満洲に渡ったそうですが、

幼い頃は、都市計画がなされた満洲で、何不自由なく育ったそうです。

(満洲では、ハルビン⇒瀋陽⇒大連と移り住んだそうです)

山田洋次は11歳の時に空襲を避けるために再び満洲に一家で移り住んでいた

その後、いつ頃かは不明ですが、一旦、日本に帰国すると、東京都大田区池雪小学校に通い、太平洋戦争中の1943年、11歳の時には、東京都立第八中学校(現・東京都立小山台高等学校)に入学したそうですが、

同年5月には、空襲を避けるため、再び、一家で満洲国へ移り住んだそうです。

山田洋次の少年時代は敗戦の色が濃くなるに伴い寒さと飢えに苦しむようになっていた

しかし、次第に敗戦色が濃くなっていくと、現地の日本人の生活は日に日に困窮を極めていき、山田洋次さんも例外ではなく、寒さをどうしのぐか、冬を乗り越えるためにどうカロリーを摂取するか、そればかり考えていたそうで、

山田洋次さんは、その時のことを、

母は、安い油で質の悪いコーリャン(タカキビ)を炒めてお粥(かゆ)を作った。『兄さんは15個、お前は12個』というふうに夕食に配られたのは、ピーナツだよ。

生きなければならない、そこには、文学も芝居も音楽もない。つまり、精神的な滋養がなかったんだ

と、語っています。

(コーリャンは、もともとは馬の飼料として使われていたそうです)

山田洋次は敗戦をクラスメイトから伝え聞いていた

そんな中、山田洋次さんは、1945年夏、中学2年生の時には、学徒勤労動員として、大連で“戦車壕”を掘る作業に明け暮れていたそうですが、8月15日には、校庭に集められ、玉音放送を聞いたそうです。

(※玉音放送とは、1945年8月15日正午にラジオ放送された昭和天皇による「終戦の詔書」の朗読)

ちなみに、ラジオの性能が悪く、言葉も難しかったため、山田洋次さんは、何を言っているのかさっぱり分からず、教師からも何の説明もなかったため、たぶん激励のお言葉だろうと思っていたそうですが、昼食の時間に、クラスメイトの一人が、噂に聞いたと言って、日本の敗戦を皆に伝えてくれたのだそうです。

山田洋次は敗戦後はもともとは自分の家だったロシア将校の家でアルバイトをしていた

そして、敗戦から1週間ほど経つと、大連にもソ連軍がやって来たそうで、やがて、山田洋次さん一家は、広い家を追い出されて、狭いところ(一家族一部屋といったふうに)に押し込められ、山田洋次さん一家がもともと住んでいた広い家は、ソ連の将校の住まいになったのだそうです。

そんな中、山田洋次さんは、そこへ、ボーイのアルバイトに行き、掃除したり、物を運んだりしていたそうですが、

ロシア語を一生懸命に勉強して、少しずつ喋れるようになると、だんだんソ連軍の苦労も分かるようになり、やがて、この将校(母国では学校の先生をしていたそうです)と仲良くなったそうで、

山田洋次さんは、

もうこれで戦争はないんだね

と、聞いてみたそうですが、

将校は、

いや、まだアメリカとしなきゃいけない

と、答えたそうで、

山田洋次さんには、この答えが今も忘れられないそうです。

山田洋次は15歳頃に満洲から日本へ引き揚げていた

そして、終戦から1年後、ようやく日本から引き揚げ船が来るようになると、1947年には、山田洋次さん一家も、大連から日本へ引き揚げ、山口県宇部市の伯母の家に身を寄せたそうで、山田洋次さんは、15歳~18歳までここで過ごしたのだそうです。

ちなみに、終戦後、山田洋次さんは、食うや食わずの生活で、行商や炭鉱の坑木運搬などの重労働や進駐軍の使役などに従事していたそうですが、そんな辛い中、みんなを笑わせてくれる人がいたそうで、その人のお陰でどれほど気持ちが救われたか分からないそうです。

山田洋次は東京大学法学部に入学していた

その後、山田洋次さんは、1950年、18歳の時には、東京大学法学部に入学したそうですが、

(この頃はまだ、映画監督を志していた訳ではなかったそうです)

役人とかサラリーマンになったら自分がダメになるんじゃないか

と、思い悩み、授業に出席せずにいたそうで、

落第すれすれとなってしまったそうですが、1954年、なんとか、無事、卒業できたそうです。

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山田洋次は東大卒業後に松竹に補欠入社していた

ただ、当時はまだ、日本の経済が復興していない時代だったため就職難で、

先生に、

この成績では名の通った企業に就職するのはムリだよ

と、言われたそうで、

山田洋次さんは、学校の成績を重視しない、マスコミ、新聞社、映画会社を片っ端から受験したそうで、そんな中、たまたま、松竹の試験に合格し、同年(1954年)、松竹に補欠入社したのだそうです。

「【画像】山田洋次の若い頃は?監督作品や経歴をデビューから現在まで時系列まとめ!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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